星野智幸+くぼたのぞみ「ハッピーなフェミニスト」
男も女もみんな当事者である
星野 今日は「〝フェミニスト〟が生まれ変わる」というテーマで翻訳者のくぼたのぞみさんとトークをいたします。きっかけはくぼたさんが訳されたチママンダ・ンゴズィ・アディーチェ『男も女もみんなフェミニストでなきゃ』(河出書房新社)を僕が読み、書評を書かせていただいたからです。まず、このテーマでこれだけたくさんの人に集まっていただけたこと自体、すごく希望のあることだと大変嬉しく思っております。
この本の新しさはフェミニスト、フェミニズムという言葉につけられてしまったイメージを脱して、現代のフェミニズム、フェミニストが目指していることを、非常にカジュアルでポップな観点からわかりやすく、ユーモアたっぷりに、かつ非常に精緻に説いたところです。最初に読んだとき、解放感というか、風通しがよい気分というか、体中がそうしたすがすがしさで満たされるような気持ちになりました。
くぼた これは、アディーチェが二〇一二年の十二月にTEDxEustonで行ったスピーチに加筆したものです。このトークを行った翌年、彼女は小説『アメリカーナ』で全米批評家協会賞を受賞しました。同じ二〇一三年、ビヨンセがFlawlessという曲の中に、アディーチェのスピーチ音源の一部分をそのまま組み込んだことで、人気にいっそう火がつくことになりました。「世界のアディーチェ」になっていったのはこのあたりからではないかと思います。
星野 YouTube等で見られますが、あのビヨンセの曲の中でスピーチが流れるのはすごいですね。
くぼた ええ。その興奮に輪をかけるように、クリスチャン・ディオールが『男も女もみんなフェミニストでなきゃ』の原題WE SHOULD ALL BE FEMINISTS を胸にデザインしたTシャツを発表したのが去年の十月です。
星野 日本語のタイトルだとwe の部分を「男も女も」と、ちょっと変えてありますね。
くぼた はい。おそらく賛否両論あるでしょう。男でもなく女でもないという人だってもちろんいる。でも、「私たち」の後ろに「フェミニスト」と続くと、「私たち」の中に男性は入ろうとしないかもしれないという懸念がありました。「僕には関係ない」と言う人が出てくるかもしれない、と思ったんです。
星野 「私たち」「我々」と言っちゃったら、それは当事者だけの話というイメージになってしまう。
くぼた 本当は、男性も当事者ですけれど、どうしても女性だけの問題にされてしまう。フェミニスト、フェミニズムという言葉は「女性の問題」と限定されて捉えられがちです。そんなふうにフェミニズム、フェミニストという言葉が囲い込まれてきたのは間違いない事実。アディーチェ自身が書いていますよね、皮肉っぽく。《フェミニストというのは夫を見つけられない【不幸せ/アンハッピー】な女性のこと》だから自分のことをフェミニストと言わないほうがいいという忠告に《わたしは自分のことを「ハッピー・フェミニスト」と呼ぶ(……)わたしは「男嫌いではなく、男性のためではなくて自分のためにリップグロスを塗ってハイヒールを履く、ハッピーなアフリカ的フェミニスト」》になろう、と。
星野 ジョークに見えて、実はとても重要なことを言っている。書評でも書きましたが、友人知人である女性たちから、「私は自分のことをフェミニストだと思うけれど、そんなことを口にしたら、カタブツで恋愛もせず性に厳しいと思われて人間関係がやりにくくなるから、とても言えない」という話をよく聞きます。まさにアディーチェが書いているような状況ですよね。
くぼた 私自身も「くぼたさんって、戦闘的フェミニストだよね」と指摘され「えっ?」となった経験があります。
星野 さらに「戦闘的」がつくんですね。
くぼた そう(笑)。九〇年代半ばに私が訳したサンドラ・シスネロスが、「戦闘的フェミニスト」と名乗っていたからでしょうか。星野さんの書評を読んで思い出したんですが、そんなふうに言われるとちょっと困って、いつも枕詞のように「べつにフェミニストじゃないんだけど」と言っていたなと。でも「男と女の関係で納得のいかないことを言われたら抗議するし、それがフェミニストだって言うんならフェミニストでかまわないけど」と付け加えていました。そんなふうに言い訳しなければいけなかったのは、この言葉につけられた固定観念によるんですよね。アディーチェがナイジェリアで今体験していることを、私も何十年か前に日本で体験していたと思い返しました。
フェミニズムをめぐっては七〇年代後半ぐらいからアカデミズムの中でいろんな議論がありましたが、それはとても抽象的なもののように私には思えました。『男も女も〜』の中でもアカデミズムのフェミニズムについて書かれている部分があります。一九七七年生まれのアディーチェは、そういった本を最後まで読むのに苦労したと。
日本で男女の共同参加の法律が施行されたのは八〇年代半ばですよね。
星野 男女雇用機会均等法が八六年で、共同参画社会基本法が九九年です。
くぼた 法整備の実現につながる運動が可能だったのは、論理的な蓄積があったからです。ただ、アカデミズムの言葉は、社会のまさに現場で働いて、苦しんで、何かつらいなと思っている当事者のところまで果たして届いたのかな、という疑問はあったんです。理論の言葉をもたないばかりに「私はフェミニストじゃない」と言う人が出てくる。みんなの問題のはずなのに、分離するというか、分けられてしまった。
星野 分断統治ですね。
くぼた そうです。フェミニスト、フェミニズムという言葉が抱えてきたイメージの問題は、そういう流れがもたらした結果だったんじゃないかなと今は思います。
それをフォローするのが文学なんですが、八〇年代の日本にはその辺のことを細かく描く人があまりいなかった。干刈あがたさんの『黄色い髪』(一九八九年)は、子供を育てるというテーマを通じて学校ないし社会と女性のかかわり方を非常にリアルに描いている作品ですが、干刈さんは本当に残念なことに早くに亡くなってしまった。それだけに、最近の若い作家の方々が正面からフェミニズムをテーマにした(というか、ファンタジーではなく、リアルな女たちを描いた)小説を書いてくれていて、うれしいです。
文学の言葉だからこそできること
くぼた アディーチェが出てきたときの強烈な印象は、言葉の使い方といい、このストレートさはなかなか得がたい、というものでした。
星野 すごく物事をはっきり言うけれど攻撃性はあまりなく、それをユーモアに変えられる力がある。怒りは強く感じるんです。だけど、誰かを断罪して切って捨てるみたいなことはしない。批判はしても、その相手は切り捨てない。『男も女も〜』の冒頭に、アディーチェのことを初めてフェミニストと呼んだ男友達の話が出てきますね。その呼び方がネガティヴなニュアンスだったと。
くぼた 「おまえ、テロリストの支持者だな」みたいなニュアンスだった。
星野 でも、そのことがアディーチェに「フェミニストって何だろう?」と目を向けさせるきっかけになっていったわけですよね。だからその男性とはその後も親友でいられたんですよね。
くぼた そうです。
星野 他にも、アディーチェがいくら社会における女性の不自由さを説いても、「もはや女性は差別されていないから」と思い込んでいて話が噛み合わなかった男友達が、女性にとって事情が違うことに初めて気づいたエピソードの書き方も巧みです。
くぼた 駐車場で車の見張りをしてくれた人のすばらしいパフォーマンスに感動したアディーチェが、彼にチップをあげた。彼女は自分のハンドバッグからお金を出したにもかかわらず、受け取った人は連れの男友達に向かって「サンキュー、サー」と言った。男友達は「僕がチップをあげたわけじゃないのに」と疑問を口にして、お金は全部、男である彼が彼女に与えたものだと思われたと知り、やっと女性が置かれている位置に気がついた。
星野 理解していない男友達を断罪するのではなく、少しずつ少しずつ理解へ導くような付き合い方をしていることが見えてくる。そういうところがアディーチェの風通しのよさだと思うんです。
くぼた アディーチェは『男も女も〜』によって、そこで「会話」が始まること、「対話」と呼んでもいいかもしれませんが、この本がそのきっかけになってほしいと言っています。
彼女は、ジェンダーとは生物学的な男女差ではなく、あくまで社会的な役割分担だと再確認しています。問題なのは男か女かということではなくて、ジェンダーロールであると明言している。それを共有するために言葉を発している。理解しない人たちへの批判はあっても、非難はしない。
星野 特定の誰かに対して変えろと言うのではなく、力関係の差をまずみんなに提示する。無意識に、今ある状況を前提にしている、されている人に対して、それを意識化して、こういう差が実際にあるじゃないかと提示してみせる。その上でどうしたらいいか、という観点ですべてが書かれているし、言葉が出てきている。
くぼた アディーチェの最大の魅力は、排他的ではないことです。ぶつかって「この人の態度はおかしい。差別的だ」と思っても、その人を排除する動きをしない。これはかなりの力業ですが、言葉を発する人間として、彼女はおそらくそれを自分に課している。インクルーシブという考え方ですね。彼女は誰もがフェミニストになれるように言葉を発する努力をしている。だから、weの中に、男も女も、男じゃなくても女じゃなくても、全部入る。そうしないと社会が基本的に変わらないと思っている。
星野 この「男も女も」には、ジェンダーの問題に関してはみんなが当事者、みんなで考える主体になりましょう、自分のこととして考える側に立っていきましょうという意図があったんですね。
くぼた そうです。
星野 その結果、僕もこのトークを頼まれ、男も出ないといけないと、非常な責任と役割を感じてここにいます(笑)。
くぼた ありがとうございます。もうひとつ作家であるアディーチェがフェミニズムに率先して関わっているということが、大きなポイントだと思います。
フェミニズムは、前述のとおり、囲い込まれて、硬い殻をかぶせられてきた言葉です。そういう手垢のついた言葉をもう一度よみがえらせるのは、詩人であり、作家であり、文学者の仕事ですよね。
星野 それはもう、僕自身、いつも痛感しています。文学の役割は、無内容、無意味になってしまった言葉を更新すること。
くぼた 新しい意味を与えるというより、「あっ、これって今のことだ」「これって俺だ」と思えるような姿にすること。今、ここで、この世界でこの言葉は生きている、ということをはっきり見えるようにすることです。
星野 まさにそうですね。
くぼた その仕事を彼女は「フェミニスト」という言葉で成し遂げたなという感じがします。
特権を持つ者は「それ」に気づかない
くぼた ウェルズリー大学の卒業式のスピーチ(二〇一五年)で、アディーチェが非常に的を射たことを言っていました。女性に対して差別は一切していないという男性は、差別的な制度の中で自分が生きていることが見えていないんだ、と。その制度なり慣習なりを内面化して育てられて、ずっとそこで生きてきたためにその不平等が見えていない。だけど、一緒に生きている女性は日々それを感じながら生きていたりする。特権性の持っている最も大きな特徴は「盲目であること」だとアディーチェは言っています。
だからこそ、それを意識化させる必要があるわけです。その過程では意見が対立してけんかになることもあるだろうし、主張とは関係のないことで意地悪されたりするかもしれない。特に日本ってそのパターンが多いですよね(笑)。でも、面と向かって「あなたの言うことは違う」と言ってくれる人は、むしろ親切な人だと私は思う。日本では言わない人のほうが多い。忖度しろ、なんていう文化ですから。詩人にせよ作家にせよ、もし日本の人がアディーチェの『男も女も〜』と同じことを言ったら正直、本にならないかもしれないなと思います。
星野 文学の抑圧性については僕も言いたいことはたくさんあって、それだけで何時間でも話せちゃうぐらいなんですけれども(笑)。男としてまず考えなきゃいけないのはそこですよね。男の人が「それ」――すなわち特権性に気づかないということ。
僕は、マイノリティ、マジョリティということについて二十年くらい考えてきました。今僕の定義する「マジョリティ」とは、自分の存在が普通ないし標準だと無意識に思っていて、自分のことを説明する必要がない存在です。自分が何者であるかを他者にいちいち言う必要がない。一方、マイノリティは、おまえは何者で、どうしてここにいて、何でそれをやっているんだと問うてくる他者に対して、いつも説明を強いられる側、というふうに定義できると思います。
アディーチェは、女性は常に好かれるようにしないと、仕事がもらえなかったりコミュニティで受け入れられなかったりといった、「認められない」状態に置かれやすいと言います。だから、常に相手がどういうことを求めているのかを察知して、それに合わせたり、それに合わせる振りをし続けたりすることを強いられる。それはマイノリティです。ところが男性はそういうことをしなくていいので、「しなくちゃいけない立場にある」ということをいくら説明してもわからない。経験がないからです。だから女性から指摘されたときに「平等に扱ってるのに」とムキになってしまう。
実は僕自身も、同時期にデビューした女性作家に、「あなたのほうが編集者から重きを置いて見られている」と言われたことがあるんです。
くぼた そうなんですか。
星野 僕には同じような扱いにしか見えませんでした。ところが後になって振り返ってみると、いろいろと気づくことがあるんです。例えばパーティーのときに、僕のほうが先に紹介してもらえたりとか、細かいことで違いはやっぱりあった。でも、そういうことが男には見えていない。気づかないから、責められると、ムカッとして今度は逆ギレしてしまう。
くぼた 男性からキレられた経験を持つ人は多いですね。
星野 その場でとにかく口で言い負かさないと気が済まなくて、めちゃくちゃなことを言い返す。後から振り返ると、なぜそんなに躍起になって否定しようとしたのか理由がよくわからない。たぶんそれは、批判が正しかったからなんです。僕自身の経験でも、不愉快になって初めて、自分には特権があったのかもしれない、下駄を履かされているのかもしれないというサインに気づけた。
くぼた そういうふうに自省して、考え直してみるという作業をする人には希望がありますね。
星野 よかった(笑)。
くぼた 正直、私の世代――今の六十代以上の方は、もう面倒くさくなってそのまま流してしまう人のほうが圧倒的に多い感じで、とても残念です。ガチガチの男らしさみたいなものを誇示する世代は、男の役割をやれと言われ続けてきて、一生懸命果たしてきたという自負がある。「それは違うよ」と若いうちに女性が言ってこなかった、言えなかったのかもしれないですが、女性にもちょっとずるい部分があった。まあ、ある意味、それは生き延びる手立てでもあったわけですが。
私は一九六八年に、大学に入るために北海道から東京に来たのですが、一つ違いの兄も東京で下宿していたんです。当時は「兄妹二人で一緒に暮らせばいいじゃないの」というのが一般的だった。ところが私の母は「兄妹で下宿が一緒になったら、掃除をしたりご飯をつくったりというのはどうしても妹の仕事にされてしまう。周りがそういう見方を押し付けるからやらざるをえなくなる。勉強する時間がそのぶん減るから別々に暮らしなさい」と、余計にお金かかるのに、そう言って出してくれました。アディーチェが来日したときその話をしたら、いたく感心してくれた。
星野 すばらしいですね。
くぼた 私の母もフェミニストだったと思うんです。
星野 アディーチェも自分の曾祖母も、思い返してみるとフェミニストだったと書いていますね。フェミニストと名乗ってはいないけれども、おかしな男女の決めつけを簡単に受け入れさせないよう努めてくれた人が、モデルケースとして身近にいた。くぼたさんの場合も、アディーチェの場合も。そういう人がいれば、経験が積み重なって、他の人が似たような場面に直面したときに、黙らないでいられる。アディーチェのような存在は、言う勇気を持つ人を増やす。
くぼた 読者の方からも「おかしいと思ったら言っていいんだ、むしろ言っておいたほうがいいんだとわかった」という感想をいただきます。そこで男女の対話が始まる。
星野 初めのうちは対話にならないで、男はたぶん逆ギレするでしょうね(苦笑)。それでも繰り返すことが重要だし、女性は「じゃあ、何でそんなに怒るの?」と聞けばいい。
くぼた ええ。とはいえ、きっととてつもない圧力の壁にぶつかる。そこでへこんだとき、戻っていける場所になり得るのが、このテキストなんだろうなと思うんです。
男にも女にもフェアな視点とは
星野 『男も女も〜』も、フェミニストというものを概念ではなく、よりカジュアルな姿に変えて、実践的にどうしていけばいいのかを示していますが、もっともっと具体的なかたちをとっているのが、アディーチェの小説『アメリカーナ』です。
ナイジェリアで生まれ育った主人公・イフェメルが、大学進学のためにアメリカに渡り、十三年を過ごし、いくつかの恋とブロガーとしての成功を得た後、ナイジェリアに戻る話です。アメリカ社会で暮らせば、当然人種の問題にも当たるし、女性の問題にも当たる。さまざまな形でマイナーな領域に置かれていくなかで、イフェメルは彼女に起こった問題を明快に言葉にしながら進んでいく。物語内で彼女が書くブログの内容がすばらしいんですよね。
くぼた そうですね。
星野 もし僕が二十代のときにこの小説に出会っていたら、ナイジェリアに行っちゃうぐらい感化されていたと思います。とりわけ印象的な人物が二人いて、一人は、イフェメルの最初の恋人であるオビンゼのお母さん、もう一人はオビンゼ当人。オビンゼの母はナイジェリアで大学教授をしている女性で、彼女の言っていることがあまりにすばらしすぎて、僕、号泣したんです。
くぼた えっ? どこで号泣したんですか?(笑)
星野 イフェメルがオビンゼのフラットを訪ねるようになり、性的関係を持つかどうかという場面です。オビンゼのお母さんはイフェメルだけを彼女の寝室に招き入れ、「するときはちゃんと避妊をするように」と、イフェメルの立場に立ってはっきりと言う。ナイジェリアで、「自分の息子とするときには避妊しろ」と言うような人に出会ってびっくりして……。
くぼた セックスは二人の行為だけれど、不公平にもその結果は女性だけが背負うことがある。自分もかつては若かったからよくわかる。だからこそ、自分で自分の身を守りなさい、とお母さんが息子の恋人に言う。あの場面は確かにすごいと私も思いました。
星野 ええ、すごいんですよ。
くぼた それを彼女に言わせているのは、作者であるアディーチェなんですよね。
でも、この場面に関しては非常にアンビバレントな感情が込められているとも思っていて。母親が、自分の息子と性的関係をもつ前に報告しに来いだなんて、何なの? と私自身は思ってしまう。けっきょくは報告しなかったとイフェメルは語るのですが、これはある種、皮肉だと思っているんです。
星野 皮肉?
くぼた 母親は離婚しているので、息子のオビンゼと二人っきりでしょう。だから、息子の恋人を女性として尊重しながらも、アンビバレントな感情もある。
星野 なるほど、一種の支配欲でもあると……。でもイフェメルは、このオビンゼの母の影響を大いに受けていると僕は読んでいて思いました。
くぼた そうですね。尊敬している。
星野 イフェメルの行動を見ていると、十代で強烈な印象を与えた最初の恋人の母親の生き方、言葉が、選択の原点になっている。何か困ったら、彼女の行動の原理に照らし合わせて生きてきたと僕は読んだんです。同じことが、オビンゼにも起きている。オビンゼはまさにフェミニストの男性だけど、それはあの母を見て、吸収して育ったから。
くぼた 主人公イフェメルの母親は「天使を見たわ!」と言い、次々と信じる神を替えていく非常に宗教がかった人として描かれているので、その対照的な女性として恋人のオビンゼの母親を描いているのでしょう。両方ともナイジェリアにいる女性の姿だろうと思いました。もちろん大学教授のほうが圧倒的に少ないので、オビンゼの母親は理想の体現の部分もある気がします。アディーチェ本人の母親はフルタイムで働いた人で、ナイジェリア大学で女性として初めて教務課の管理職まで務めた、かなり社会的地位の高い人です。父親は統計学の教授で、ナイジェリア大学の副学長でした。ちなみにお兄さん二人、お姉さん二人、弟一人という構成で、兄姉は薬学を勉強したり、医者になったりしています。だから家族はみんなサイエンスを学んだ人たちで、自分だけが「文系」だと言っています。
星野 インテリ一家ですね。
くぼた まさにインテリ家族の中で育っています。だから彼女は、特権的であることの最も大きな特徴は盲目である、とスピーチするとき必ず「私自身もそうだ」ってつけ加えるんです。教育を受けられることの特権性に自分は気がついていなかったと。
アディーチェは知的で理性的でありながら、その中におさまり切らず、狭いところに自足しない。彼女の視野の確かさの現れです。『アメリカーナ』は、アメリカ人はもちろん、ナイジェリアの人の描き方もまた絶妙。いわゆる「善人」があまり出てこない。嫌味な人とか、意地悪な人が多い。
星野 これがまたリアルです。
くぼた 勘弁してくれというアメリカ的なところだけではなく、しょうもないナイジェリア的なところもしっかり、さらーっと書く。
星野 少ない言葉数でその人物をすーっと立ち上げる能力が突出しています。登場人物が持つ良い面、しょうもない面、さらに複雑な感情を持っているところまで、簡単な描写で読者にわかるように立体化させる。すばらしい作家です。
「男のその脆いエゴの欲求を満たしてやれ」
くぼた 現代において、みんながフェミニストになれない理由の一つは、価値観の刷り込みの影響です。例えば私の世代なんかは、家事は女がするのが当たり前、たとえ社会に出ても二、三年働いたら嫁に行けと言われました。そういう価値観を持った両親のもとで育つと、女性が男性並みに仕事をする時代になっても、男性のほうには家事をやってあげているという意識が根強くある。してあげているという部分が消えないとフェアにならない。
星野 価値観を変えるのは難しそうですね。
くぼた とても難しいです。表面上はフェアに分担していても、何か問題が起きたときに、そのあげている意識が顔を出してきて非対称な関係になってしまう。俺はこんなに一生懸命やっているのに評価されない、と、まるで不当な扱いを受けているように男性が感じてしまう。案外、若い人でもそういう意識はありますね。
星野 いや、もうおっしゃるとおりです。家事をしないよりはだいぶマシになったとはいえ、まだ自然な意識からの平等にはなっていないです。そういう意識は、例えば男だけのおしゃべりになったときに出ます。自分がいかに妻の尻に敷かれているか、あるいはガツンと言ってやれるか、どちらかの観点に偏る。その延長として、自分のモテ自慢合戦が始まる。その場に男性しかいなかったとしても、それを聞かされるのは不愉快な男もいるわけです。
くぼた 当然そうですよね。
星野 そういう根本的なさもしさから変えていかなくてはいけないんだと思います。男性もフェミニズムを意識することで、自分を縛っているものから解放される。競争には常に勝たねばならないだとか、弱みを見せてはいけない、弱音を吐いてはいけないといった、内面を拘束するものが社会にはある。その原理に従って生きれば、ある種の特権を与えられはするけれど、じゃあ本心から自分らしく生きているのかというと、全然そうではない。
アディーチェは、フェミニズムへの理解を通じて、そこから自由になろうよと言っている、と僕は読みました。
くぼた 男の子には《「強い男/ハードマン」でなければならない》と教え、女の子には《身のほどをわきまえ》《自分を小さく見せ》《男のその脆いエゴの欲求を満たしてやれ》と育てる。アディーチェはこのことが最も有害だと踏み込んだ書きかたをしていて、訳していてここが一番重要な部分だと思いました。
男らしく、泣かないで頑張れと育てること自体が、男の子の中に差別意識を刷り込むことだと、気がつかなきゃいけない。幼稚園で「女は弱いんだから男が守ってあげなきゃいけない」とまわりから教えられて帰ってきた息子に、それは違うと思ったお母さんが、その子が身につけてきた価値観を一からほぐすのがとても大変だったという話を聞いたことがあります。
星野 そうですね。幼稚園や保育園通いを始めた子どもがいる友人たちは、「やっぱり男の子は、自然に男の子らしくなってくる」と必ず言うんですよ。周囲の環境が男の子らしさを強要していて、その真似をしている部分も多いんじゃないかと僕は思ったりするのですが、僕自身は子どもがいないので、例証ができなくてもやもやしていて……。
くぼた でも、三人の子どもを育てた体験から言うと、親がこういうふうに育てようと思っても、実際にそのように子どもが育つことはまずないと断言できますね(笑)。子どもの性質にもよるし、環境にもよりますが、学校、友達、社会のあらゆる価値観を吸収して、内面化していく部分が圧倒的に大きい。そうしないと人間は生き延びることができない。だからこそ社会そのものを変えていかなければいけないんです。
女性国会議員は二割にも満たず、女性社長や重役も少ない社会の中で私たち日本人は生きている。無意識に染みついてしまった価値観や常識をどうやって変えていくかということだと思います。
ちなみに二〇一六年にナイジェリアのブハリ大統領が「私の妻はキッチンに属している」という主旨の発言をしたとき、カチンときたアディーチェはイギリスの新聞・ガーディアンにエッセイを寄せてきっちり反論しました。アメリカをはじめ世界中で絶大な支持を受けているのは彼女のこういうところですが、ナイジェリアに帰ると、男性たちから陰で、下手をしたら表でも、ビッチと叩かれている。
星野 ナイジェリアでフェミニストを名乗ることは、相当風当たりが強い行為なんですね。
くぼた だからこそ、敢えてフェミニストを名乗ることで切り開こうとしているし、ナイジェリアの社会全体が変わってほしいと思っているようです。これってすごいですよね。
日本にもまだまだ、男女差別的な発言を公然とする人たちはたくさんいます。ようやくポリティカル・コレクトネスという言葉が取り沙汰されるようになりましたが、「そもそもコレクトネスって、日本にあるの?」と言いたくなるのが現状です。
星野 本当に、建前としてすら存在するのか、疑問に思うことが多い。さっきの文学業界の抑圧性についての話をやっぱりしちゃいますけど、例えば女性批評家を「標準に達していない」という言い方でずっと締め出し、抑圧し、認めてこなかったりとか。少しでもフェミニズム的なテーマや、日常の非対称性への違和感を描いた文学作品が出てくると、「普遍的なテーマではない」とか「小説は政治的な闘争を繰り広げる場ではない」と過小評価したり、ひどい場合は「PC(ポリティカル・コレクトネス)文学」と揶揄したりと、まともに論じられることが非常に少ないと感じます。そういう人って、日常でポリティカル・コレクトネスを実践できていないんですよね。その感覚は、日本社会全体をよく代表していて、日本語の文学はマイナー気取りでいるけれど、じつは既得権益を手放さないで非対称性を温存しようとするマジョリティがまだ中心を占めています。
くぼた 一対一で向き合っているときに、対等であろうと努めることはそれほど難しくない。だけどアメリカにおける人種問題がそうであるように、社会に出たとたん許されなくなるということは多々ある。『アメリカーナ』では、主人公・イフェメルが、アメリカの白人男性とつき合う場面で、そうした不均衡を巧みに描いています。部屋に二人きりでいるあいだは何も問題がない、でも、外に出たとたんに周囲の目が二人のフェアな関係を許さない状況が露骨なかたちであらわれる。つまりナイジェリア出身の黒人女性とアメリカ人の白人男性が恋人同士であることに違和感を唱える社会状況が顔を出すんです。これはジェンダーの問題でも同じ気がします。制度を変えることは常に、人と人との関係の在り方とセットで変えていかなければいけないということですね。
星野 構造的な不平等と、個々人のあいだで起こる現場での力関係の不平等との両方を、同時に見ていかないといけない。制度だけ表面的に変えても、現場を構成する個々人の力関係が変わらないと、充分な効力を発揮できないと思っています。
ハッピー・フェミニスト宣言に必要なこと
星野 このトークを引き受けた以上、僕自身もきっちりフェミニスト宣言をしなくちゃいかんなと思って来ました。でも、言葉だけで「フェミニストです」なんて言ってもしょうがない。どういうふるまいができれば、男であってもフェミニストと公言していいのか、そのことをずっと考えてきたところ、『アメリカーナ』にその答えが書いてあったんです。
イフェメルが書くブログの一節を引用します。《親愛なるアメリカの非黒人のみなさん、もしもひとりのアメリカ黒人が黒人であることの経験をあなたに語ったら、どうか自分の人生から事例をむやみに引っ張り出さないで。「それってちょうどわたしが……」なんていわないで。あなたは苦しんだ。世界中だれだって苦しんできた。でも、あなたはまさにアメリカ黒人であるゆえに苦しんだわけではないのだから。起きたことにあわてて別の説明をあてたりしないで。「おお、それって本当は人種のことではなくて、階級のことだ。おお、それって人種ではなくて、ジェンダーだ。おお、それって人種ではなくて、クッキーモンスターのことだ」なんていわないで。いいかな、アメリカ黒人は本当はそれが人種だなんて望んでいないんだから。彼らは人種差別的厄介事なんか起きてほしくないのだ》。
フェミニズムにおきかえると、男性の側は平等だと思っているのに、「平等じゃないことが起きている」と言われたときに、別のことで説明をつけたり解釈をせず、その経験をまずは黙って受けとめて聞いてほしい、ということです。
じゃあ、どうしたらいいのかと言えば、《耳を澄ましてみて、たぶん。どういわれているか、よく聴いて。そして忘れないで、それはあなたのことをいってるわけじゃないの。アメリカ黒人があなたのせいだといってるわけじゃないの。彼らは、ありのままをいっているだけ。理解できなかったら、質問すること。質問するのが不愉快だったら、質問するなんて不愉快だといってから、とにかく質問すること。適切な場所から発せられた質問に答えるのは難しくはない。それからもう少し耳を澄まして。人は自分のことばを聴いてほしいだけということもある。ここに友情や結びつきや理解が生まれる可能性があるのだから》ということですね。僕はこれこそが、男がフェミニストになるためのヒントだと思ったんですね。
くぼた ああ。この人には話ができる、「これ、おかしい」と感じて溜めこんだ言葉を、この男性になら話していいって女性が思える人になること。しかもそれを、例えばその女性に不利になるようなかたちで他の男性や女性に言ったりしないという誠実さを持った人間になるということですかね。男と女の友情はそこから始まるような気がします。
星野 ええ、まずはそこから。自分が下駄を履かせてもらっているってことに気づいていない段階で「差別だ」と言われても、ピンと来ない男性のほうがまだ多いと思う。だから、とりあえず黙って受けとめる。そこで腑に落ちないのであれば、逆ギレじゃなくて質問をする。
くぼた 質問って大事です。加えて、質問の仕方ね。いわゆる言い方ってやつです。けんかになったときに、「君の言い方が悪い、僕を怒らせるような言い方をする」みたいなこと、よく言うでしょう?(笑)
星野 それを言うこと自体がもう、非対称性を前提にしてますよね。えてして男のほうが大声になって相手を黙らせようとします。
くぼた そうです、そうです。でも、すごく多いんです、そういうケース。質問の内容自体を問わないといけない。
星野 で、ひとまずは黙って受け止めて、それから冷静に、あくまで穏やかに質問をする、ということができればフェミニストになれるということでしょうか。
くぼた それはもう、フェミニスト宣言ですね。
星野 ……肝に銘じます(笑)。
構成/倉本さおり(2017.5.20 本屋B&Bにて)