【書評】「戦後」という幻想、現在を問い直す「複眼」
菊間晴子
お盆が来ると、戦争のことを考える。終戦の日が近づくたびに聞こえてくる「悲惨な戦争を二度と繰り返してはならない」という言葉。その認識はたしかに正しい一方で、あの戦争を遠い過去の出来事として、いま私たちが直面している現実から切り離すことにもつながっているように思う。
一九三五年に生まれ、一九五〇年代末にデビューした大江健三郎は、「戦後」を代表する小説家だ。しかし彼の描く「戦後」は、「戦中」「戦前」と切り離されてはいない。彼の言葉は、一九四五年は戦禍と平和の分岐点ではないこと、現在時はあの戦争と地続きでしかあり得ないことを読者に突きつける。
本書は、文学者・小森陽一と歴史学者・成田龍一による、初期から後期までの大江作品(小説・エッセイ)をめぐる連続対談をもとに構成されている。文学と歴史の視点から作品を読み直すことを通して二〇二〇年代の危機について考える、という明確な目標のもとに重ねられた両氏の対話から見えてくるのは、大江が同時代の日本、さらに世界の情勢に向けていた鋭い観察眼と、その歴史観である。二〇一〇年代まで精力的な活動を続けた大江の歩みは、一面的な「戦後」認識がもたらす思考停止に抗い、現在時を絶えず歴史的観点から捉え返し続けた軌跡そのものであったことが、鮮やかに提示される。
テクストの細部を見過ごさない微視的な分析と、それを歴史的文脈に位置づける巨視的な視座が重なり合う軽妙な掛け合いは刺激的だ。特に印象に残るのは、『個人的な体験』(一九六四)、『万延元年のフットボール』(一九六七)をめぐる議論である。『個人的な体験』の分析では、冒頭に登場するミシュラン社のアフリカ地図に「フランスが植民地にしていたアフリカと大資本の関係」を重ね、アフリカ諸国の独立が相次いだ当時の状況への大江の関心に迫り、本作におけるアフリカが単なるエキゾチシズムの対象ではなかったことを明らかにする。また『万延元年のフットボール』では、日米関係の転機としての万延元年(一八六〇年)の動乱と一九六〇年の安保闘争とを重ね、「百年単位で日本の現在を考えるという試み」を行なった大江を、歴史学的な文脈から評価する。近代化の成功を掲げて「明治百年」を祝う一方、その過程で生じた戦争を過小に扱おうとした当時の政府の思惑を批判的に問い直す作品として、本作を位置づけるのである。随所に見られる沖縄的なモチーフや、朝鮮人の「スーパー・マーケットの天皇」という人物造形を、残存し続ける戦争のしるしとして読む観点も示唆的だ。
また本書は、初期から後期までの大江作品に一貫して見られる「中間者」の表象の重要性を、的確に指摘している。初期短篇で大江が描いた「中間者」は、「国家も占領軍も共同体も決して一枚岩ではない」ことを暴く存在であった。ある対象を一義的に捉えず、多角的な視点からその内実に肉薄しようとする彼の姿勢は、広島・沖縄との関わりや「九条の会」での活動にも通底するものだった。戦後民主主義を自らの理念としながらも、個別の他者との関わりのなかで、その理念がはらむ矛盾や限界に絶えず直面し、それを言語化し続けたのだ。本書の議論をあえて別の言葉で言い換えるなら、大江が取り組み続けたのはまさにインターセクショナリティの問題だ。徹底的な個への着目を通して、多重的に絡み合う歴史と社会の位相を照らし出すのが、彼の方法論だった。
各作品に関連して、小森・成田両氏の「個人的な体験」が語られるのも面白い。大江より年少の世代として「戦後」を生きた二人の証言に加え、その読み筋にある細やかな差異や、時折生じる腹の探り合いのような場面を残し、和やかながら緊張感もある対話録としてまとめた長瀬海の構成が光る。両氏は、大江が小説の核となる構造として据えた「おかしな二人組」に自分たちをなぞらえているが、二人の呼応と細やかな「ズレ」のライブ感こそが、その「おかしみ」を支えている。
さらに、晩年の大江作品に顕著な自作の引用とその再構成・再解釈、あるいは自作の改稿に注目し、それを一九九〇年前後からの「戦後」の新たなフェーズ(「『戦後』後」)に身を置いて改めて「戦後」を検討し、現在時に接続する意欲的な試みとして評価していることも、本書の美点だ。しかし、晩年の大江が初期作品に施した改稿を、「きれいにし過ぎた」と否定的に捉える両氏の評価には異論もあり得る。たとえば成田は、「空の怪物アグイー」(一九六四)の改稿に際し、語り手「ぼく」が少年労働者に千円を与える場面が削除されたことについて、「連帯の可能性」を示した箇所を「大江がみずから切ってしまった」と述べている。しかし削除後のテクストに生じた余白こそ、現代の読者に響き得る要素であるとも考えられはしないか。「ぼく」自身が抱える心理的な空虚さや経済的な貧しさ、他者との連帯が容易には成立し得ない現実を前提にしつつ、それでもかすかに他者の存在を感受し、共存する可能性が提示されることに、むしろ今日的な意義があるだろう。『個人的な体験』の火見子の人物像が有する奥行きなど重要な視点が提示されつつも、ジェンダーの観点からの分析はさほど深められておらず、七〇年代以降の作品に顕著なエコロジーの問題系や九〇年代の作品における信仰の問題系への言及が少ないことも含め、本書にはさらに掘り下げる余地のある論点が、未来に開かれたかたちで提示されていると言える。
大江健三郎を文学と歴史という「複眼」で捉える本書は、大江その人が「複眼」の持ち主に他ならなかったことを教えてくれる。平和な「戦後」という幻想の延長線上で、「新しい戦前」という言葉が不気味なリアリティを持ついまこそ、現在を絶えず問い直す「複眼」から紡がれた大江の言葉を、本書を導きとして読んでいくことに、大きな意義があるはずだ。