【書評】小説までの距離
川崎祐
『筏までの距離』に収められた短篇群は視点人物と彼がかつて過ごした「時間」との距離を共通して扱っている。十四年のキャリアを持つ小説家の作らしく収録された八つの短篇はそれぞれ「筋を欠いた、言葉の運びだけで読ませるタイプの小説」(「ロング・スロウ・ディスタンス」)として仕上がりに抜かりはない。とはいえ、小説が小説となるために必要な最低限の起伏(の契機)は用意されているのだが、それは主に視点人物と関わりのあった女性の存在というかたちをとる。小説によっては別れた妻だったり学生時代の恋人の妹だったりする女性たちと視点人物との関係の濃淡は当然ながら作品ごとに異なる。たとえば「回して削る」では離婚を機に仕事を辞め郷里に戻って週末だけ木工に励む三十代半ばの男性がいまだ元妻の存在に囚われている様子を意外なかたちで描いているが、表題作「筏までの距離」では小説家である「私」と取材旅行で知り合う女性との関係未満の関係が描かれている。各篇に登場する女性たちは小説が語られ始める契機をなすという意味で重要な役割を担っているが、語り出された小説において彼女らと視点人物との「関係」は語りの中心に置かれてはいない。むしろ彼女たちと過ごした時間が照射する視点人物の「現在」が徐々に浮かび上がっていく。距離を扱うとはこのような意味である。必ずしも明るいとは言い難い視点人物たちの「現在」が、それでも一種の軽快さを獲得しているようにみえるのは、しみったれた回想の罠を回避する語りの妙の手柄だろう。こうして八つの短篇は「筋を欠」きながら「読ませる」小説として成立することになるのだが、そうであるがゆえに、小説を読む私の視線はこれら起伏に乏しい短篇群を小説たらしめる小説の「構え」の方へと自然に移ろう。
収録作の多くが小説家、あるいは、かつて小説を書いていた人物を語り手、もしくは、視点人物に据えていることに視線は落ち着く。先に引用した「ロング・スロウ・ディスタンス」では、語り手の「私」は小説家として設定されているが、同業者と付き合いのない「私」が唯一交流を持つ小説家が七市である。「私」は七市から「恋人じゃない」が親しい関係にあった女性と房総半島を歩いて一周した話を聞かされ、その話から「小説を立ち上げてほしい」と頼まれる。ここから窺えるのはこの小説が憎らしいほど巧みに小説の構造への自己言及を小説の中に織り込んでいる、ということだ。小説家である「私」が友人の小説家から彼と親しい関係にあった女性との噓のような話を聞かされそれを小説にしてほしいと頼まれた結果、小説として「いちから創作」する。くどいようだがこの小説の筋なき筋をまとめるとこうなる。ひとを食ったような話だ。要するにこの小説は「これから小説として書かれる小説を今読者は読んでいる」という構造を持つ一種のメタフィクションなのだが、刮目すべきはそれが男女の不思議な関わりから織られるよくできた短篇としても違和感なく「読ませる」ことだ。小説の構造を故意に露呈させながら、小説を読むことの快楽が否定されていない。
この構造もまた幾つかの小説で共通している。最も顕著なのは「沙貴のこと」だろうか。この小説では文字通り「沙貴のこと」が描かれる。ふざけているのではなく事実そうなのだ。沙貴は学生時代に小説を書いていた語り手が当時付き合っていた女性の妹である。彼女は子供の頃から大切にしているぬいぐるみに沙貴と名付けていた。専門学校の卒業旅行で彼女は使い古してボロボロになった「沙貴」と同じ種類の新しいぬいぐるみを探しにイギリスに行く。語り手はその顚末を十数年後――恋人と別れて沙貴とは連絡が途絶えていた――再会した沙貴から聞かされ「沙貴のこと」を小説に書いてほしいと頼まれる。しかし肝心の沙貴の話は「小説的な展開を欠き」「何か適切な脚色を加え」る必要があった。沙貴と別れた後、彼は「ぼくなら、ぼくのような、小説に挫折した人間が視点人物の小説にする」と思う。そしてそのような小説を、「沙貴のこと」を、読者は今まさに読んでいる――『筏までの距離』はこのような「沙貴のこと」が末尾に置かれ、「ロング・スロウ・ディスタンス」が冒頭を飾っている。いわば一冊の本としてメタフィクションを自覚的に標榜しているわけだが――それゆえに――読み終えた後に色濃く感じるのはその背後にいる者の気配だ。
その者――つまり――小説家は――と、思案しているうちに私は厄介なことになったと気づく。この短篇集がメタフィクションであるなら、私が考えようとしている「小説家」もまた虚構に包含されているように思うからだ。なんて面倒な。いい加減にしてほしい。紙幅も尽きようとしているというのに。しかし頭の中がこんがらがり思わず不満を溢しながらそれでもそれを解きほぐしていくこともまた、良質なメタフィクションを読む悦びだった。かつ『筏までの距離』はよくできた短篇集としても成立している。曲芸のようなこの事態を可能にしているのは細部を稠密に書き留め、言葉と言葉の間に溢れる光を掬いとる小説家の確かな技量だ。むろん稠密さへのこだわりはこれまでの作品にも漲ってはいた。しかしそのクロースアップは、ときとして視点人物の幼さを必要以上に際立たせることもないわけではなかった。『筏までの距離』はその感触から遠い。小説を小説にする軋みとの間に距離が生まれている。そうであるなら、「距離」をつくるものはもう男女の関係に限定される必要はない。もしそれが――やはり小説家が執拗にこだわってきた――場所との、肉親との、近しい者からの暴力との間に意識的に拵えられるなら、これから彼が書いていく小説には実りある広がりが生じていくのかもしれない。書くことと読むことの快楽を肯定し、小説家を新しい場所へと誘いうる小説集の誕生を、私はひとまず言祝ぎたい。