【書評】絶望を光にして
ひらりさ
AIみたい、と言われることがよくある。具体的にはこうだ。「あなたの〝気持ち〟は、言われたことや起きたことを〝本当に〟受け止めて出てきたものに思えない。それらを〝情報〟として処理し、出力を返しているだけに見える」。たしかに「こう言ってくる人は悲しいはずなので、謝るべきだ」という経験則を蓄積し、それに従って振る舞っている自覚はある。こうも言われる。「あなたってルールがあるから守っているだけで、〝本当に〟人を殺しちゃいけないとは思ってなさそう」。しかし、他の人たちは〝本当に〟思えているのだろうか? たとえば、ある人が陰謀論にはまらないのは、その人に分別があるわけではなく、その人の周囲でそれが「馬鹿らしいこと」と考えられているからに過ぎない気もするのだが。……なんて言うと怒られそうだから、AIのような自分を恥じている顔をつくっている身にとって、村田沙耶香の小説はいつも恐ろしい。最新作『世界99』は、もはや災害だった。隕石が降ってきたような、地面が割れたような、そんな類の体験だった。
「最初に分裂をした日のことは、よく覚えている。」
幼稚園の頃、クリーン・タウンに引っ越してきた如月空子。両親から「そらちゃん」として愛されている彼女は、幼稚園で最初の「分裂」を経験する。先生の期待に応えながらも、周囲の子供を「トレース」して、〝子供らしい本音を隠してみんなの手本として頑張る健気な「空子お姉ちゃん」〟のキャラクターを完成させたのだ。その過程で、元々の自分だと思っていた「そらちゃん」も、両親に期待されて出来上がったものだと気づいた彼女は、人生の節目節目で意識的に「分裂」していく。まっすぐな倫理観を持つ同級生・白藤遥に「呼応」してつくった「キサちゃん」、友人が遭遇した性犯罪をめぐるゴタゴタのなか衝動的に生み出された「プリンセスちゃん」、男と恋人になり庇護してもらえる存在として最適化した「そーたん」。
彼女の望みは、楽に、安全に生き延びる、というささやかなものだ。「世界」も複数あると気づいた35歳の空子は、キャラクターを洋服のように着回し、三つの世界を行き来することで安定を得る。しかし、「リセット」と呼ばれる出来事が起き、空子を取り巻く世界たちは、大きく姿を変えることとなる。
村田の芥川賞受賞作『コンビニ人間』の主人公・恵子が、「コンビニ店員」というペルソナひとつに依拠していたことと比べると、空子はずいぶん器用だ。高性能なニュータイプに思える。それなのに、分裂を繰り返せば繰り返すほど、彼女の人生は不自由なほうへ向かっていく。なぜか。彼女の分裂が、割り当てられた「女」としての性に依存するためだ。女っ気を封印した「おっさん」というキャラをつくったり、女としての「典型例の人生」から外れるために勉強を試みたりもするが、空子の分裂は、どうしても、「女」らしいものへと引き寄せられる。抗うことで生まれるリスクがあまりにも大きいからだ。
「27歳になるころには、私は自分という生き物1匹の家賃と光熱費と食費を捻出することに、疲れ切っていた。(中略)自分を養うためだけに自分の奴隷になるか、家畜を飼うことで真の家畜になることはぎりぎりで免れながら、明人の人生と生活のための便利な家電になるか。私は家電を選んだ。」
これは、空子の分裂が、不自由で差別に凝り固まった世界へのリアクションでしかないことともつながるだろう。世界のルールを慎重に観察する彼女だが、ルールを壊すことには踏み切らない。キャラの分裂はいわゆる過剰適応であり、世界に順張りする行為であり続ける。
空子の人生は、「分裂」の自覚により奇妙な読み味を持ちながらも、あくまで「典型的な日本人女性」の人生でもある。ありふれた物語をスリリングに加速させるのは、人工ペット「ピョコルン」の存在と「ラロロリン人」に対する陰謀論・差別という二本の横糸だ。序盤、犬や猫と同列の愛玩動物として登場したピョコルンは、次第に「女」の代替機能を搭載され、二元論的な性規範をかきみだしていく。ピョコルンと、関連して激化する「ラロロリン人」への差別が、少しずつ、時に急激に世界を変化させる。空子以外の人々もまた「呼応」しあっているのである。
「遠いあの日は確かに、ピョコルンを命をかけてでも守るべきだった、と思ったのに、今は、ピョコルン、愛されて幸せだね、私も幸せだよ、とこの光景を微笑んで見守る価値観が、私にダウンロードされている。たくさんの人が、それを『アップデート』と呼んでいる。」
「アップデート」されていく暴力や差別の有り様と、それを観察する空子の言葉はすべておぞましい。しかし真にグロテスクなのは、これは、村田が、現在進行している社会に「呼応」して書き出したものだという、そのこと自体だろう。空子の呼応も、世界の分断も、今この瞬間、起きていることである。
これらの読み味を際立たせるのが、村田ならではの身体把握だ。
「感動は振動だ、と、最近よく思う。誰かの内臓のかたかたとした震えが、振動になってそばにいる誰かに伝染していく。いつのまにか、たくさんの人の内臓が共鳴し、皮膚の内側でぶるぶると、嬉しそうに震えている。」
肉体が描写されればされるほど、人間が、肉でできたロボットに見えてくる。そして、思い知らされる。世界に「呼応」する以前に、人間は、自分の身体のありように「呼応」していることを。であれば、作中最後の空子の選択も、必然だったように感じられる。
呼応に呼応を重ねて己を変えてゆく空子が、「生きる」という至上命令には絶対忠実であることは、彼女に終始、憎みきれなさと生々しさを与えている。自分と相容れない存在である白藤遥と関わり続けること、自分より弱い子供の「生きる」を守る行動に出ることも。突き抜けた絶望の先に、不思議と、生きること、他者と関わることへの光が見えてくる小説だ。