みどりいせき

みどりいせき

著者:大田ステファニー歓人

【第47回すばる文学賞受賞作】

【選考委員激賞!】
私の中にある「小説」のイメージや定義を覆してくれた。──金原ひとみさん

この青春小説の主役は、語り手でも登場人物でもなく生成されるバイブスそのもの──川上未映子さん(選評より)

ISBN:978-4-08-771861-4

定価:1,870円(10%消費税)

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内容紹介
このままじゃ不登校んなるなぁと思いながら、高2の僕は小学生の時にバッテリーを組んでた一個下の春と再会した。
そしたら一瞬にして、僕は怪しい闇バイトに巻き込まれ始めた……。
でも、見たり聞いたりした世界が全てじゃなくって、その裏には、というか普通の人が合わせるピントの外側にはまったく知らない世界がぼやけて広がってた──。

圧倒的中毒性! 超ド級のデビュー作!
ティーンたちの連帯と、不条理な世の中への抵抗を描く第47回すばる文学賞受賞作。
刊行記念対談 金原ひとみ×大田ステファニー歓人

【書評】小説の可能性を広げる自由の使者(笑)

豊﨑由美

「もう小学生じゃないんだから、擬音をたくさん使うような作文は幼稚だから書いちゃだめ」と国語教師に注意されたのが、わたしが中学生だった一九七四年。高橋源一郎が自著の『優雅で感傷的な日本野球』に対する富岡多惠子の「この手の、良くいえば『親密な』サークルだけに通じる符号性をアテにした言葉で書かれる文章は、いかに自由な口語体に見えはしても、音声、意味ともに周縁にひろがろうとする言葉の機能を自閉させる」という文芸時評での批判に反論したのが一九八八年。
 世につれ変化するのは歌やコンプライアンスのありようだけではない。文芸においてもまた、なんである。たとえば、第四十七回すばる文学賞を受賞した大田ステファニー歓人の『みどりいせき』。〈きらん〉〈ぷしゅう〉〈ズゴー〉〈すすん〉〈ぽっこぽこ〉などの擬音を多用し、〈ギャルピ〉〈タギング〉〈バビ公〉〈ブリっちゃった〉〈チキる〉といった、若い世代やある種の集団におけるジャーゴン(富岡さん言うところの「内輪の言葉」ですね)が頻発する。
 じゃあ、この作品が幼稚で自閉しているかといえばさにあらず。擬音表現はすでに漫画のおかげで、海外でもその独自性が高く評価されているし、実際、ステファニーの作中での使い方は文体のリズムにおいても、その場のアクションの臨場感の伝達においても自覚的かつ効果的。ジャーゴンに関しては、調べ物がしやすい昨今においてはまさに「ググれ、かす」なのであり、むしろ知らない言葉を認知することによって少なくともわたしの世界は少し拡張した。つまり、かつて「よろしくない」とされてきた文芸のお作法の多くは、大田ステファニー歓人のようなタイプの新人作家によって戒めのくびきから解き放たれ、小説はその可能性を広げていく。『みどりいせき』はそんな自由の使者(笑)として、わたしたち読者の前に現れたのである。と思う。
 主人公は都立高校の二年生・桃瀬翠。物語は少年野球チームでキャッチャーをしていた小学生の〈ぼく〉が、ピッチャーの春からサインを拒まれ続ける回想から始まる。やっと投げてくれたきれいなシュート回転の直球は、相手の四番打者のバットの上半分をかすめ、見事キャッチャーフライに打ちとったはずが、〈ぼく〉は球をおでこに当ててしまう。で、意識が〈落ちる直前に、チップをキャッチして揚々と返球する並行世界のぼくと目が合った。そんで時間の連続性は断ち切られ、エントロピーが急減少。たどり着いたのは音も色も、光も闇もない素粒子の世界こんちわ。〉という、その後も頻出して読者を楽しませてくれるユニークな文体の記述をもって、物語は現時点へと帰ってくるのだ。
 高校二年生になっている〈僕〉はもう野球はしていない。何につけても無気力で不登校がち。授業中も校舎を徘徊する始末。そんな〈僕〉が高校一年生になった春と再会し、なりゆきから彼女の仕事を手伝うことになるのだ。それは大麻クッキーの手押し(密売)! ここの展開がうまい。笑いを連れてくるのである。〈僕〉は春が手渡しで売りに行っている間、ブツが入ったバッグを別の場所で見張っている役目を担うのだけれど、それが大麻クッキーだとは知らない。しかも、春の友だちからもらったチョコチップクッキーを食べてしまったものだから、〈蜘蛛の巣にぶつかったみたいに、見えない膜を突き破った感触というか、不可逆な力の働いたおっきな透明ななんかに触れてしまったようなイメージにとらわれた。(中略)体に充満した鼓動がついに溢れ出して耳の穴から体に戻ってくる。そんな自分自身の感覚にほんろーされて〉見事にキマッてしまい、春たちの隠れ家に連れていかれることになる。なのに、そんな状態になってさえ、春からギャラだと二万円渡されると〈お菓子でこんな儲かる? 転売?〉と見当はずれのことを言って、みんなに笑われるのだ。
 後から事情を明かされ、いったんは春と〈「おかしいよ。法律違反じゃん」「だから? んなの自分で決めたんじゃないし、とっくに死んだジジイどもが作ったルールなんて知るかよ」〉と言い合いにはなるものの、仲間になる〈僕〉。本来は見張り役を務めるはずのいかつい鳴海先輩、春の親友のグミ氏、ラメちらとの、CBDのリキッドペンやジョイントやボング(水ギセル)を吸いながら、テレビを見たり、宅配ピザを食べたり、超絶うまいグミ氏の歌に聴き惚れたり、他愛のない会話に興じたり、たまにはハラリの『サピエンス全史――文明の構造と人類の幸福』みたいな話にもなったりする〈ぬくぬくほかほかしたバイブス〉に包まれた隠れ家は、〈惰性の睡眠とYouTubeだけの張り合いない生活〉を送っていた〈僕〉にとっての心地いい居場所になっていく。
 でも、そんな幸福な〝子供の時間〟は続かない。同じように手押しをやっている別グループによる襲撃、警察の手入れの予感。もともと優柔不断で小心者な〈僕〉は、何か起きるたびに「もう抜ける」と弱音を吐き、泣いたりパニくったりするのだけれど、でも――。
 こうして、大麻を売ったり吸ったりすることに罪悪感を抱かず、おそらくは将来のことも何も考えておらず、今のバイブスを上々にしたいだけの図体の大きな子供たちの楽園を描く前半部から、血と暴力と捕まる恐怖に襲われる後半部へと転じるのだけれど、作者はこれを「とっくに遊び時間が過ぎてしまったことに気づかない子供たちの罰と悲劇を描く」なんて凡庸な物語には着地させない。最後の最後に置かれた、冒頭の小学生時代のエピソードと呼応する場面の素晴らしさは感涙ものなのである。これをもって、ファールチップを捕れなかったせいで止まっていた時間を、〈僕〉はようやく再び動かせるようになるのだろうという明るい予感。素晴らしい上にも素晴らしい! ……あ、そういえば。タイトルの「みどりいせき」は「みどり、いせき」と読むんじゃないですよ。「みどりい、せき」ね。じゃ、その意味は? 知りたければ、読みなさい。未知の言葉をわたしみたいにググりながら。