【書評】ことばをつらねて「わたし」をはこぶ
倉本さおり
ほれぼれするほど緻密に濃やかに構築された物語だ。ことばを器とみなして世界を固着させるのではなく、あくまでそのつらなりから「わたし」を解き放つのりものの姿を見出そうとするまなざしの、なんと気高く頼もしいことか。
冒頭、とある脚本を囲む五人の登場人物の会話が戯曲のような形式で綴られていく。〈俺こういうの好き〉〈僕の小説はそういうのじゃないんだ〉〈私、人魚姫やりたい〉。軽口も含めて気ままに意見を投げあう、どこにでもいそうな高校生の男女の姿――私自身を含め大方の読者のなかで浮かびあがるであろうその像は、しかし次に続く二つのパートで何度も軽やかに翻る。そこで私たちは改めて思い至るのだ。〈人は全員違うし、人と人の関係もひとつひとつ全部違う〉という、しごく当たり前のはずのことに。
この物語の中心にいるのは、高校の演劇部で活動する個性豊かな五人の生徒たちだ。彼女たちは文化祭でアンデルセン原作の『人魚姫』を現代的な視点から翻案したオリジナル脚本に挑むことになる。題して『姫と人魚姫』。王子ではなく、人間の王女に心惹かれて海から陸へとあがる人魚姫を演じるのは、本作の主人公でもある真砂だ。
出生時につけられた彼女の名前は〈正雄〉。だが小学校、中学校と年次があがるうちに男子の集団に問答無用で帰属させられることが苦しくなり、〈真砂〉の通名と共に「女の子」として生活していくことを選択した。彼女を後押ししたのは他でもない、高校から始めた演劇でまさに「女役を演じた」という経験それ自体だ。
〈「他の誰かのための自己犠牲とかじゃなくて――人魚姫はとにかく外の世界に行きたかった。自分のしたいことをしただけなの。めちゃくちゃわがままで、自由な女の子なんだと思うなあ、人魚姫って」〉
真砂が語る人魚姫の像は――脚本担当の滝上がさらりと看破していたように――彼女自身がなりたい/演じたい女の子の像でもある。その滝上を筆頭に、王女役の水無瀬や魔女役の栗林、部長の宇内を加え、原作と照らし合わせながらそれぞれが抱いている人魚姫のイメージやプロットに対する疑問と解釈を互いにぶつけあい、『姫と人魚姫』の物語を複層的に立ちあげていく。本当は嫁ぎたくなどない王女のありようにせよ、ただ賢いまま歳をとってしまっただけの魔女のありようにせよ、完成した舞台が家父長制と異性愛規範に基づく世界に鮮烈かつ痛快な一撃を食らわす内容となっている点は本作の勘所だ。それは同性に失恋した経験のあるアンデルセン自身のエピソードを踏襲したものであると同時に、彼女たちそれぞれのジェンダーをめぐる違和を投影したものでもあるからだ。
ところが前半を潑剌と彩っていた空気は後半のパートで一転する。卒業から三年近くが経ち、『姫と人魚姫』の再演の話が舞い込んできたとき――かつての仲間たちの前に姿を現すのは〈真砂〉でなく〈眞靑〉だ。東京の大学に進学した真砂は就活が始まる前に性転換手術を受ける予定だったが、入学直前に起きたパンデミックのせいで費用の貯金がままならず、高校のときから受け続けていた第二次性徴を抑制する治療も「不要不急」の題目のもとに止められてしまった。結果、みるみる変容していく自分の身体に絶望し、鬱状態に陥った彼女は、「女の子」として生きることを「やめ」てしまったのだ。
〈陸が海のようにはてしなく続いているのではないことを人魚姫は知った。いな、陸は広大だが、人はその上に数多の境界線を引き、その線を踏み越えないように、縮こまって生きているらしかった〉
作中作において、おおらかに広がる「海」と対比される「陸」のありようは、そのまま社会規範でがんじがらめになった人間社会のメタファーでもある。実際、人魚から人間への変身というモチーフは、真砂のなかでトランスジェンダーの「性移行」に重ねあわせて解釈されていく。
〈人魚は 魚の半身と人間の半身を切り分けて どちらかを選びどちらかを捨てるしかなかったのか〉
〈人魚のままではなにもできないから にんげんというキマイラになるしかない〉
前半の真砂パートも後半の眞靑パートも三人称一元視点で語られていく点は同じだ。しかし、その合間に皆で演じる脚本の一節が挟まれることで、滝上や宇内や水無瀬や栗林ら部員たちの――いうなれば複数の彼女たちの声がいつも賑やかに響き渡っていた前半に対し、眞靑が閑散としたSNSにひとり連投していたコメントが挿入される後半のパートは、ぞっとするほどつめたく孤独で閉塞感に満ちている。このあたりの構成の妙は、歌人として屹立することばたちに向き合ってきた川野芽生ならではの感性の鋭さを物語るものだろう。
人魚姫がたったひとりの不幸な王女のためにすべてを捨てて陸にあがったように、眞靑もまたなぜか強烈な不幸の臭いがする優しい女の子のために「男」として生きることにしたのだと自嘲気味に話す。だが当然滝上たちは納得しない。そもそも真砂がかつて演じた人魚姫は〈自分のしたいことをしただけ〉の〈めちゃくちゃわがままで、自由な女の子〉だったはずなのだ。
〈眞靑にはもうわかってしまっている。自分の生き方を、自分で選んだのだと思い込むために、他者が必要だったのだと〉
かつて人魚姫が泳ぎまわる「海」で共に時間を過ごした演劇部の面々が、勝手に引かれる境界線の理不尽と今もそれぞれに格闘しているのを知った眞靑は、引き裂かれてばらばらになった自分のことばを再び取り戻すべく「他者」と出会い直すことを試みる。〈カガリビ〉名義で滝上が書いた小説を眞靑がインターネットサイトから開いて読み始める終幕は示唆的だ。そこには、ことばの営為をけっして諦めない、この作者の高潔なたましいがしずかに息づく。