【書評】「見晴らし」をもらう
植本一子
もう母とは7年会っていない。子どもの頃から抱えてきた母に対するわだかまりのようなものが、自分の出産を機にくっきりと現れ、7年前のある出来事で爆発したきり、母とは一定の距離をとっている。住んでいる場所も離れ、母がまだ元気であるという、物理的に距離をとることが許される環境に自分がいることと、7年という時間が経ったことで、母への憎しみはいつからか、少しでもいいから母を理解したいという気持ちへ変化しつつある。今回この本を読むひとつの動機となったのも、著者の一人であるくぼたのぞみさんが母と同世代だったことも大きく、何か手掛かりになるのではないかと内心考えていたのだ。
自分より年上の女性で、翻訳家同士の往復書簡を、今の自分にはどんなふうに読むことができるだろうと、不安と楽しみで読み始めた。書評の依頼文にも「翻訳との出会いやキャリアの経緯、翻訳者どうしに生まれた連帯、それぞれの子育ての混沌や、仕事におけるジェンダー格差にまつわる葛藤……などなど、1年にわたり言葉を紡いでくださった書簡集です」とある。子育ての混沌からの視点なら、私にも共通する部分から書けるかもしれない、と引き受けたものの、読んでいくと、70年代から80年代を振り返ったお仕事と表現についての記述が大部分を占めている。それは同時に、子供を育てながらキャリアを積み重ねていったものであり、自分の子どもたちもずいぶん大きく育った今、あの混沌からは抜け出しつつはあるものの、お二人の書かれていた子育てについての箇所を読むと、それはそれは日々大変だったことと、今となってはもう戻れない愛おしい瞬間の連続だったことを思い出し、勝手に感慨も深くなる。
「私にとっていちばん怖いのは多分子供だった。自分が労働に疲れ切って最低の気分のときに子供がいて、その面倒を見なくてはならないとしたら……と思うと、それより怖いものはなかった。」
思わず文章に赤線を引き、深く息をついた。私にも身に覚えがある、恐ろしい実感だった。子の有無に限らず、誰の身にも覚えがあり、想像ができることではないかとも思う。著者の斎藤さんは、そんな育児の不安にも「やり方を見つけた人たちはいるのだから、私にもできるんじゃないかと思った」と大事にしている本の中から答えを見つけている。それを受けて「小さな子供を育てている最中にありありと自覚したのは、自分のなかの小さな子供を捨てることだった」とくぼたさんからの返事が届く。これにも実感があり、また線を引く。往復書簡には、相手の言葉によって呼応するように、自分の記憶の扉が開いていく瞬間があり、それが醍醐味でもある。一人では開けることのできなかった扉を、一緒に開いてゆく。それを読む私の扉も同時に開いていて、自分と同じように感じている人がここにもいる、と嬉しくなる。
子育て以前の、まだ何者でもなかった頃の斎藤さんのあるエピソードも印象的だった。アメリカの有名な男性作家と同じ席についた日の話で、何者かを尋ねられ自己紹介をしたところ、理不尽に怒鳴られてしまう。トラウマとも呼べる出来事に、酒の勢いもあったのだと自分を納得させるも、その場で味方になってくれたのはたった一人で、周りのほとんどの大人が守ってはくれなかったと回想する。こうして文字にするのも勇気がいるような記憶を人は持っていて、長い時が経っても強く残り続けている傷は、受け止めてもらえそうな人の前でやっと取り出すことができる。読んでいるこちらまで背筋が冷たくなる話を受け、くぼたさんは手紙の中で一緒に悲しみ、憤慨する。そのやりとりに、時を超えて手をとる二人の姿が見えてくるようで、気持ちが浄化されあたたかくなった。
人には、これまで生きてきたそれぞれの時間がある。私自身にも、子どもの頃の自分がいて、若い女性と呼ばれた頃の自分がいて、母となり子を持った自分がいて、そして現在の自分がいる。そのどれもが今につながっている。私の母もまた一人の人間であり、このお二人とも違う、特有の物語を生きているという当たり前のことに気付かされる。いつか本人の口から聞ける日が来れば、とぼんやり希望を持っていたことが、この本を読むことではっきりとした。計算してみると、斎藤さんと私の年齢差は、私と娘の年齢差と合致する。私がこれまでに書いてきた本も、いつか娘たちが読む日がくるのかもしれない。その時、この本のように、彼女たちの背中を押す瞬間があればいいなと思う。誰かの物語を読むことは、自分の味方を見つけることでもあるから。これから先、本当に多様な、バラバラの生き方を彼女たちは選ぶことができるし、していくだろう。それはこれまでの女性たちが摑み取ってきた自由であり、これからも続いていく戦いでもある。
少し先をいく先輩たちが手をとりあい、お互いの記憶の扉を開けていく。その背中がなんだかとても楽しそうに弾んで見えて、未来は悪くないんじゃないか、とそれこそ遠くまで見晴らすことのできる眼鏡を一つ手に入れたようでもある。自分の愛するもの――子ども、詩であり文学、そして仕事が、こんなにも豊かな言葉で語られていることは、私にとって心強く感じる。