裸の大地 第二部 犬橇事始

裸の大地 第二部 犬橇事始

著者:角幡唯介

一頭の犬と過酷な徒歩狩猟漂泊行にのぞんだとき、探検家の人生は一変し、新たな〈事態〉が立ち上がった(『裸の大地 第一部 狩りと漂泊』)。百年前の狩人のように土地を信頼し、犬橇を操り、獲物をとりながらどこまでも自在に旅すること。そのための悪戦苦闘が始まる。橇がふっ飛んで来た初操縦の瞬間。あり得ない場所での雪崩。犬たちの暴走と政治闘争。そんな中、コロナ禍は極北の地も例外ではなく、意外な形で著者の前に立ちはだかるのだった。裸の大地を深く知り、人間性の始原に迫る旅は、さまざまな自然と世界の出来事にもまれ、それまでとは大きく異なる様相を見せていく……。

ISBN:978-4-08-781731-7

定価:2,530円(10%消費税)

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【書評】氷と言葉

竹沢うるま

 本著で語られている物語は、創造や想像を一切排除し、北極という厳しい自然環境下における自身の行動と思考によってのみ生み出される言葉の集合体である。余分な脂肪を完全に落としきり、強く弾力に満ちた肉体的な言葉とでも言えばいいだろうか。まるで極地の猛風やマイナス30度の冷気で叩きあげられた氷のような、ゆるぎのない言葉である。しかし、多くの極地探検記とは違い、不思議と柔らかく、ときに温もりを持って読む者に伝わる。読後には、ある種の優しさのようなものを感じる一冊となっている。
 本著は、犬橇活動を通して、探検家角幡唯介とエスキモー犬たちとの関係性が深まっていく、その始まりの探検記である。2018年に発表された太陽が昇らない極夜の北極を徒歩で旅した『極夜行』において、自身の探検活動における最高到達点に達したあと、著者は新たな探検を模索するために次の土地へ移動することをせず、北極に留まることを選ぶ。
「裸の大地」シリーズの第一部『狩りと漂泊』では、「いい土地」との出会いがきっかけで犬橇に取り組むことになる様子が語られており、第二部である本著では、その犬橇を通じて犬との関係性が深まる様子、もしくは著者の言葉を借りるとしたら、泥沼化していく様子が展開されている。最終的には犬橇によって「いい土地」の範囲を広げていくことが目標なのだが、それは次回以降に語られることになるだろう。
 物語は犬との不思議な共存関係の下、展開していく。極地を犬橇で旅するとき、犬たちの存在が人間の命を左右する。例えば、犬たちを自分が思う方向に動かすことができなければ、冷たい海やクレバスに落ちることになるし、犬たちがすべての装備を載せた橇とともに走り去れば、誰もいない無人の極地でひとり取り残され死ぬことになる。そのため、いかに犬たちを意のままに操るのかが肝要となる。
 当然のことながら、人間と犬の間に共通の言語は存在せず、犬は人間の言うことを聞かない。そのことに著者は何度も怒りを爆発させ、試行錯誤する。対して、犬たちは人間から餌を与えられなければ餓死してしまう。つまり極地の犬橇の旅において、犬と人間は有効なコミュニケーションツールを持たないのにもかかわらず、死という絶対的事実によって強く結ばれているのだ。著者は橇犬をかわいいと思ったことが一度もないと断言しているが、死の下で共生関係にあるとき、そのような表象的な感情は不要なのだろう。その代わりに、命、もしくは死というものに真正面から向き合った者しか感じることができない感情に辿り着くことになる。
 本著が角幡唯介のこれまでの探検記と大きく違う点は、孤独ではないということである。『アグルーカの行方』で北極冒険家の荻田泰永とともに旅しているが、基本的にはひとりで自然という対象に向き合ってきた。そこに他者とのコミュニケーションは存在せず、あるとすれば、探検というツールを使った大地との対話である。『極夜行』においてはウヤミリックという相棒犬は登場するが、こちらもやはり向かい合っていたのは極夜における自身の存在そのものであった。
 今回、角幡唯介の探検の対象は、犬という他者との関係性にある。その深化をいかにして成し遂げるのか。そしてその関係性を築きあげたとき、これまで自力ではアクセスができなかった地理的未知に到達することができる。これまではひとりで活動する探検家だった著者が、これからは犬とともにチームとして探検に挑む。もしくはチームの構築こそが探検の対象となっている。角幡唯介という探検家が行ってきた探検の変遷から語るとすれば、本著は大きな転換点となるだろう。『極夜行』が、極夜の暗闇の孤独から生み出された言葉だとすれば、本著は著者自身の行動や思考を詳らかに白日の下に晒し、徹底した具象性を有した言葉で紡がれる白夜の物語である。同時に、これまで記されてきた古今東西の探検記の系譜において、新たな側面にスポットを当てる一冊となっている。
 実を言うと、今年の冬、私は北極で二ヶ月弱ほど著者と過ごした。犬橇に同乗し、同じテントで眠り、文字通り同じ釜の飯を食べた。最終日。角幡唯介はさらに一ヶ月近く旅を続けるため無人地帯の北へと向かい、私は村へ戻るために南へ向かうことになっていた。その日の朝、我々は凍えるテントのなかで、三島由紀夫の『金閣寺』について話し合っていた。想像によって頭のなかで金閣寺を燃やすのか、それとも実際に金閣寺に火を放つのか。認識が世界を変えるのか、もしくは行動が世界を変えるのか。写真家である私は前者であり、徹底した行動者である角幡唯介は後者である。
 実際、極地でともに時間を過ごすとわかるのだが、角幡唯介は常に行動している。犬の世話、装備の修繕、ルート確認、狩り、テント設営、食事の準備。厳しい自然環境を前に創造や想像は入り込む余地はなく、生き抜くためには行動の積み重ねしかない。そうやって極地における自身の領域を広げていく。本著において語られている内容は、その行動が余すところなく記されており、言葉と行動の間に齟齬が存在しない。そういう意味で、生きるという人間の根源的行為が、そのまま言葉に変換されていると言える。だからこそ、本著の言葉は、ムチのようにしなりながら読む者の心にビシバシと響く。
 表面的な情報や誇張された言葉が氾濫するいまの世のなかで、ここまで行動に裏打ちされた筋肉質な言葉は、どこにも見当たらない。リアリティを欠き、虚像に満ちた我々の日常に、痛みや苦しみ、喜びや優しさ、そして感謝の手触りをもたらす。徹底した行動によって世界を広げる探検家の言葉が、我々の認識に変革をもたらす。