流れる島と海の怪物

流れる島と海の怪物

著者:田中慎弥

衝撃の『共喰い』から10年。再び下関を舞台に仕組まれた、濃密な家族と血をめぐる、少年と少女の鮮烈な神話。最新長編小説!

ISBN:978-4-08-771837-9

定価:2,145円(10%消費税)

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内容紹介
母に連れられた大きなお屋敷で、朱音(あかね)と朱里(あかり)という二人の神秘的な姉妹に出会った。母はなぜ「俺」を姉妹に会わせたのか。それは、母の姉である福子から聞いた、自分の出生にまつわる信じられないような秘密と、朱音たちの母の故郷である「流れる島」にまつわる悲しい神話に結びついていた──。
刊行記念対談 田中慎弥×宇佐見りん

【書評】匂い主義リアリズムの先にあるもの

阿部公彦

 小説のおもしろさは、場所として、「ここだ」と特定できるだろうか。小説に「おもしろ穴」のような入口があって、鼻を近づけると香りが漂うというなら話が早いが、必ずしもそうではない。どこをさがせばいいのだろう。
 こんな変な問いを立てたくなったのは、田中慎弥の快作『流れる島と海の怪物』を読んで、あらためて小説的おもしろさの位置が気になったからである。この作品はまるで小説の「おもしろ穴」の奥の方にある、粘膜のようにやわらかい部分に手を導くようにして読者を引き込むからである。ああ、そういうことか、小説の奥はそんなふうになっていたか、とレントゲン写真を見るような思いになる。
 主人公の慎一は早くに父親を亡くし、母親に育てられているが、やがて朱音と朱里という姉妹と近づき、はじめは姉の朱音と、その失踪後は朱里と付き合いを深める。しかし、彼の出生には秘密があった。しかも、それは朱音たち姉妹の成育環境ともからんでいる。急死した父親を取り巻く人間関係の向こうに、土地の大物の影が浮かび上がり、歴史を背負った共同体特有の饐えたような空気が鼻をつく。そう、まさに匂いなのだ。
 かつて芥川賞受賞作の『共喰い』で田中慎弥と出会った読者は、おそらくその香りに――匂いに――この作家の魅力を感じただろう。魚類の生臭さを混じらせた、下関という土地の濃厚な血の匂い。ものを食べる姿が強烈な印象を与える父親。その体臭を受け継いだ主人公が悩みに沈む傍ら、彼らの体臭に圧された女たちも黙ってはいない。強烈な臭気の世界が、狭く閉じた空間に充満する。
 匂いとは世界からにじみ出すものだ。人物にまとわりつき、家屋や路地に漂う。私たちはそんなふうに匂いをにじみ出させるような世界のあり方に小説の拠り所を求めがちだ。匂いは「リアルな何か」を感じさせる。これを仮に「匂い主義リアリズム」と呼んでみよう。『共喰い』の田中慎弥はこの匂いで私たちの感性を導いた。
 あれから十年。『流れる島と海の怪物』は、『共喰い』を徹底的に解体した上で、あらためて組み立て直したような作品である。そして、ここでも匂いが鍵になる。しかし、この匂いは「おもしろ穴」に鼻を近づけた読者が、スハーッとまるでマリファナでも吸うようにして陶酔するのを許してはくれない。なぜなら、島が動いたり、変な怪物が出てきたり、登場人物が横から割り込んできてその身分をかなぐり捨て、語り手にからんだり文句を言ったりするからである。
 たとえば、慎一の恋人の朱里は、頻繁に彼の創作態度に口を挟む。「作家はいつもそう。男がそうであるみたいに、そう。登場するんじゃなくて、させられるのね、女は。」 「分ってると思うけど、女性である私が一番我慢出来ないのは、男性が、この場合で言えばあなたが、女性である私が何を考えてるか、何を考えてたか、考えてなかったかを、勝手に決めつけること。決めつけることで男性が男性になって、決めつけられることで女性が女性になること、女性にされてしまうこと。」
 なるほど、と思う。匂いをにじみ出させるような世界のあり方を支えているのは、まさにこの「決めつけ」なのだ。世界はそうであるかもしれないけど、そうではないかもしれない。いったい誰が、この世界を「そうである」と決められるのだろう。しかし、小説家は世界を、否応なくにじみ出す匂いとともに描くことで、こうあるしかないのだ、と読者に納得させる。これが匂い主義リアリズムの手口だ。そんな土台がここでは揺らぐ。
 しかし、疑問も浮かぶ。先ほどの朱里の台詞に「なるほど」と思うとき、私たちは誰に対してそう思うのか。朱里だろうか。この小うるさい朱里を、分をわきまえない面倒くさい女として登場させたのはほかならぬ語り手だ。ならば私たちはこの語り手に「なるほど」と言っているだけなのか。しかし、語り手はそんな朱里にそれなりに抵抗する。そして、まるで台風の日の朝、雨風に打たれながら懸命に傘をさして勤め先を目指し前進するサラリーマンのように、静かに禁欲的に語り続けるのである。
 大事なのは小説家自身がしゃべりすぎないことなのだ。登場人物に上手にしゃべらせなければいけない。あらためて感じるのは、人がしゃべるのをルールでは縛れないということである。登場人物がその分をわきまえず語り手に文句を言っても、あるいは語り手が隠し持ったギャグを悪ノリ気味に繰り出しても、しゃべることの切迫感が伴えば私たちはうなずくし、そこには小説の「おもしろ穴」への入口が開く。
『流れる島と海の怪物』では朱里以外にも、慎一の母親、その姉の福子、あやしい大物・古坂山源伊知といった人物がそれぞれ自分の声で物語を語り、声の拮抗を生む。台風の目となるのは「怪物」と呼ばれる謎の魚類。単なる登場人物(?)のくせに「嚙み砕いて飲み込んでやってもいいんだけど、あいにく俺は現実的な存在じゃない。この作家の力を借りないと自由に泳ぐことも出来ない。」などとつぶやく。メアリ・シェリーの『フランケンシュタイン』の「怪物」の面影もあるこの変な生き物は、ハーマン・メルヴィルの『白鯨』のモービィ・ディックとも重なり、文学史的遺産の結実と思える。その口から吐かれる声が文字になったかと思うと、「撃たれた鳥みたいに次々に落下してばらばらに折れた。」という描写は意味あり気だろう。怪物の腹の中にはいまや悪臭が充満し、慎一が住む町の臭いや源伊知の死体の悪臭と混じる。もはや匂い主義リアリズムを取り巻くのは腐臭だけなのか。いやいや、匂うだけではなく、語るのである。そんな声のぶつかり合いにこそ小説への本当の入口があると思わせてくれるのが、この作品の力なのだ。