こんな大人になりました

こんな大人になりました

著者:長島有里枝

踊るように闘い、祈るように働く──
気づけばティーンエージャーの息子、生活を共にするようになった恋人。自分だけのために作るナポリタン、国会中継へのやるせない憤り、20年ぶりにこじ開けた鼻ピアス。
女性として、写真家として、シングルペアレントとして、生活者として。
アラフォーからアラフィフの10年間を月々ありのままに記録した、伸びやかでパンクなレジスタンス・エッセイ!

ISBN:978-4-08-771815-7

定価:1,980円(10%消費税)

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長島有里枝『こんな大人になりました』刊行記念インタビュー

【書評】キッチン、歯医者、電車で書かれた、生活と抵抗の記録

長田杏奈

 写真美術には疎いが、モヒカンヘアでショッキングピンクのチビTを着た女性が、くわえタバコでウィンクする有名なセルフポートレートなら知っている。妊娠した体に坊主頭のヌードや、家族とのヌード。その人が〝自分で撮った自分の裸〟には、男性の憧れや妄想を投影したヌードに見慣れ過ぎた目にビンタを食らわす、鮮烈なかっこよさがあった。写真作品を通して抱いた「忌憚なく自己開示する人」「自分に正直に生きる人」という印象は、エッセイの1ページ目で早くも修正される。あの長島有里枝にも、「本当の気持ちなんてどうせ伝わらないのだし、面白いことを言って、その場が和むほうがいい」とおどけてみせ、本音を飲み込む瞬間があるのだと知るからだ。『こんな大人になりました』に綴られているのは、パブリックイメージとセルフイメージのギャップに悶々とする著者が、ときに伝えるのを諦め説明を端折ってきたであろう、10年分の「本当の自分」の姿だ。
 本作は「自分ひとりの部屋」で書かれたものではない。ある時はキッチンで、「紙もの」を寄せてスペースを開けたダイニングテーブルの上で、またある時は歯医者の待合や、ひしめく電車の席でおじさんに絡まれながら打ち込まれた文字が積み重なっているのだ。長島さんが語る10年を見渡しながら、とにかく一貫して制作時間の捻出に苦労している現実に衝撃を受ける。自分の100%の力を「仕事」に向けられる側の人間ではない彼女は、無償のケア労働や雑事の合間の、ほんの短い「ゴミみたいな時間」を集めて制作活動を繫ぐ。朝5時起きで息子のお弁当を作る6年間は、朝焼けの美しさを教えてくれはするが、恒常的な睡眠不足と疲労は積み重なるばかり。しかも、そういう女性写真家に対して、誰かの無償のケアの上にあぐらをかく側が「もっと撮ったほうがいいよ」と平気で口にする。やっと完成した作品が「大根でも買うみたいに」値切られ、「自分に価値がないことを思い知らされる。わたしは無視され、わたしの仕事は金銭に値しない、その他の『女の仕事』と同じように」という苦悩まで重なる。ケア労働を課される中で身を粉にして働いても、ささやかな対価しか得られないから、自然と労働の総量は増え、プレッシャーと余裕のなさに苦しむことになる。そんな苦労やジレンマを知りもしない相手から、もっと頑張るようアドバイスされる。そんな時間も体力ももう残されていないのに……。この悔しさは、写真家じゃない人間にとっても身に覚えがあるものだ。「自分で選んだようで、実は逃れられないでいるものすべてから遠い場所で自由になりたい」という内なる衝動や、「考えを喋ると怖がられる。努力が一笑にふされるかのようなこと」が重なる徒労感だって、お馴染みの普遍的な光景だ。
 2012年から2022年の間に、私たちを取り巻く社会が、すごく良くなったわけではない。子供と同年代の学生と関わる長島さんは、かつての自分や、14年前に初めて受け持った女子生徒たちに思いを馳せ「彼女たちは揃って優秀だが、自己評価はどちらかといえば低」く、「その原因も変わらない。なにを作っても、女性性や未熟さと安易に結びつけてくる男性講師の言葉。批判はもちろんだが、賞賛すらそうなので、苛つくし、落ち込む」と、自分まで泣きそうになってしまう。小さい子供を抱えながら働く人に、「両方やっても構わないが迷惑はかけるなという意味の言葉」がねぎらいの言葉よりも先にかけられ、〝頑張っても達成感が少なく、恒常的な「申し訳なさ」がいつもつきまとう〟。なのに、苦労して育てた子供を、いつか戦場に送り出す日が来るのではと不安に包まれる。そんな状況は変わってないし、むしろ深刻になっているかもしれない。選挙には欠かさず行っているにもかかわらずだ。そういう10年を生きながら、年月を経ることの効用を「四十年もがいてようやく自分の人生に愛着が湧いてきたのだ。数々の欠点も失敗も、それなりに魅力的だと思えるぐらいに」、「年を取るというのは、暴馬のような自分を少しずつ、楽に乗りこなせるようになることなのかもしれない」と肯定的に語り、「自分の幼稚さを飼い慣らす知性と知識の鍛錬」を志す。その小さな希望をごくごくと飲み干しながら、疲れた自分が超人的なロールモデルではなく、同時代を生きるリアルでオルタナティブな大人の言葉を渇望していることに気付かされる。なんだかんだ生活も身の回りの人も自分も愛し、ユーモアや洒落っ気を漂わせながら、このままで済ませたくないことに目を瞑らない。そういう大人の言葉に飢えている。
 一冊読み終える頃には、長島さんのパンク、フェミニズム、レジスタンスにすっかり感化されている。頭ポンポン教師たちに抵抗するために、生徒会役員になることは抵抗だ。その場では言い返せなくても、飲み込んだモヤモヤを種火に展覧会を開き、文章に綴ることができる。20年ぶりに鼻ピアスを開通させるのも、乳首の「ポチッ」を完璧に隠さない下着を身につけるのも、本や物事をよく見るための老眼鏡を拵えることも抵抗だ。たぶん、愚痴をこぼしたり、感情露わに泣きながら、ままならない日々をなんとか生きて暮らすこと自体が抵抗なのだ。
「できればまだ死にたくないけれど、どれだけ生きるかと同じぐらい、どのように生きるかは重要だ。長く生きて、九十歳を超えた身体や心の状態のようなものを経験できたら面白そうだ。かといって、来るかわからないその日のために、好きなことを我慢するのは違う気がする」と綴る長島さんの、人生の続きを、まだまだ読みたい。その頃には私も老眼鏡のお世話になっているかもしれないが、コーヒーがやめられないチャーミングな大人の記録を、またこの先の10年分も読ませてほしい。