【書評】希求の強度を提示する物語
平松洋子
砂上の楼閣という言葉がある。頑丈に見えても、じつは不安定で脆いことの喩え。がっちりと堅牢な世界が構築された長編小説なのに、不似合いな言葉がちらちら浮かぶのはなぜだろう。行間から、砂の上で揺れる蜃気楼が見えたりもする。
宮本輝『よき時を思う』。
謎解きは、まず小説の舞台のなかに用意されている。東京・武蔵野の土地に忽然と現れた四合院。東西南北の方角に四つの家屋が向かい合わせに建ち、高塀が周囲ぐるりを取り囲む中国の伝統様式にのっとった家屋構造である。外と通じるのは、東南側に設けられた門だけ。いわば外と遮断された造りなのだが、実際に足を踏み入れると得も言われぬ安寧を感じる。私は、足繁く北京を訪れていた時期にしばしば四合院造りの宿に好んで泊まっていたのだが、滞在中ずっと小宇宙にたゆたう心地を味わったものだ。吹き抜ける風、鳥の囀り、子どもの声。中央で十字に交差する通路には大きな金魚鉢、水瓶、卓や椅子などが置かれ、敷地内には庭木や花壇――四合院は北京や上海など胡同(横丁)のあちこちで情緒豊かな暮らしを守ってきたが、しだいにコンクリートのビルや高層アパートになり代わって壊され、時代の波間に沈んだ。
時空を超え、東京の西でひっそりと命脈を保つ古の家屋。しかも、母屋に住む三沢兵馬の父がここを建てたのは昭和二十年代、四合院への憧れを実現させるためだったというから、夢の跡でもある。物語は、だから、あらかじめ蜃気楼の気配をまとうのか。
さて、七十三歳の兵馬が引き継いだ四合院には、それぞれの背景をもつ四家族が住む。物語の牽引役は、南側の一棟「倒坐房」を叔父夫婦から借り受けて暮らす金井綾乃二十九歳。滋賀県近江八幡市の武佐に実家があり、ここに住む徳子おばあちゃんとの交流から物語は動き始める。卒寿を迎える誕生日当日、徳子おばあちゃんは自分の祝賀晩餐会を催し、金井家のひとりひとりに招待状を送って全員を呼び集めるというのだ。戦前から今日まで九十年を生きてきた女性が、なぜみずから一世一代の宴を催すのか。しかも彼女は十六歳のとき、結婚したばかりの夫の戦死の報を受け、懐剣で胸を突いて死のうとした。士族の娘として生まれた女性の内面に分け入り、同時に描き出される近現代の家族史。そして、晩餐会が近づくにつれ、金井家とその周辺のひとびとが揺れ動き、小説世界が高揚してゆく。
しきりに五感に揺さぶりをかける小説である。京都国立博物館で、中学生の綾乃と徳子おばあちゃんが観た本阿弥光悦の茶碗「乙御前」。来国俊の懐剣。端渓の硯。江戸期に編まれた竹細工の花入れ……徳子おばあちゃん所縁の工芸品が現れるたび、おおいに視覚が刺激されるのだが、それぞれの謂れを知るにつけ、思う。時代を超えて輝くものは、人間の営為と切り結ぶことによって陰影を深めるのだ、と。
聴覚にも訴えかけてくる。小学校の教師だった徳子おばあちゃんには延べ千二百五十五人の教え子がいるのだが、吃音で苦労した子が何人もいた。京都・祇園で蕎麦屋を営む清蔵。晩餐会当日、金井家の面々がドレスやタキシードをレンタルした店の女性オーナーの姉。あるいは、晩餐会の料理を依頼した玉木シェフ。発語に苦しむ子らに、徳子おばあちゃんは法華経の妙音菩薩品を読みなさいと説いた。妙音菩薩は全宇宙のなかで最も大きい、吃音の菩薩。たとえば玉木シェフは、実の母親に捨てられた過去を、妙音菩薩を一心に恃むことでフランス料理界で地位を得、凱旋帰国を果たす。徳子おばあちゃんを人生の師と慕う者たちの生身の苦悩が、鼓膜を通じて響いてくる。
いよいよ晩餐会当日。五臓六腑に火を灯すのは味覚の伝達力だ。招待状を手に手に料理店「仁」を訪れる金井家のひとびとは、徳子おばあちゃんの指示通り、女性はイブニングドレス、男性はタキシードの正装で出席し、どこか浮世離れした空気を醸す。小説の贈り物として、読者もまた一出席者として晩餐会に誘われる。玉木シェフ渾身の献立は、間人のズワイガニ、カスピ海産のキャビア レモン風味の生クリーム添え、コンソメ・ド・ジビエ、フランス産青首鴨のブレゼ、子羊の鞍下肉のロティ。料理ごとにシャンパンやワインがサーヴされ、その頂点として銘醸ワイン、ペトリュスとシャトー・マルゴー。「ただ『うまい』というしかないねん」などと家族の軽妙な会話が弾むのを聞きながら、味覚や嗅覚や聴覚や、五感すべてが煽られる。そして、メインディッシュが終わった頃合い、徳子おばあちゃんによる感謝の挨拶が今宵の晩餐会の真の意味を解き明かす。
命の讃歌としての、幸福の物語。ただし、幸福は、強く願い、強く希求しなければ手にすることはできないと徳子おばあちゃんの存在が語りかけてくる。彼女が晩餐会を決意したのは、再婚した夫が身罷った直後、三十年前なのだった。幸福とは、向こうから近づいてくるものではない、手を伸ばして引き寄せるもの、摑み取るもの。希求の強度を、物語は提示している。
終章。贅を尽くした晩餐会の余韻はすっぱりと切り離される。一転して描かれるのは、あの四合院の主、三沢兵馬が抱える親子の苦さ。兵馬は、当時十歳だった息子、克哉との間に芽生えた葛藤から逃れられず、成人した克哉が家を離れてから二十六年間、音信不通の関係にあった。心の空洞を癒やしてきたのは、四合院の家屋を貸し始めてから出会った家族たちではなかったか。金井家の綾乃もそのうちのひとりだ。
読後、不思議な感情を覚えた。四合院から生まれた小説世界がゆらゆらと蜃気楼に包まれている。朧な気配の正体を探りながら、そうか、と思い至った。「よき時」は、手綱を放せば淡く崩れ去るからこそ、意志の力をもって引き寄せる必要がある。脆さと「よき時」との背中合わせのただならなさが、揺籃のような四合院から立ち上ってくる。