【書評】孤独に祈る者たちへ
ひらりさ
オタク向けビジネスのためのヒアリングを頼まれて、同じミュージカルに何度も通っている話をしたら、こう言われたことがある。「いやー、すごいな。僕、そもそも劇場ってものが苦手で。あんなにゼロ距離で他人と座るの落ち着かなくないですか?」自意識過剰な人だなと面食らったのだが、いまにして思えば、彼の感覚が正常だった気もしてくる。赤の他人同士肩が触れ合いそうな近さで座りながら、お互いの存在を無視し、二時間以上、さらに別の他人が前方で行うことを見つめるなんて、正気の沙汰ではないのでは? 観客になるとは、ただ金を出して劇場の席に座ることではない。個人の身体と人生を希薄にし、空間と時間の一部になることである。「舞台」をモチーフに展開される『掌に眠る舞台』は、観ること/観られることのふしぎさ、意思をもって演じられる舞台/否応なく演じさせられる人生のコントラストに光をあてた全八編の短編集だ。
読み手を客席に着かせる一編目は「指紋のついた羽」。バレエの古典演目『ラ・シルフィード』の妖精に魅せられ、届かない手紙を書き続ける父子家庭の少女と、少女の思いを守ろうと、投函された手紙の返事を少女の持ち物に忍ばせる縫い子さんの交流が描かれる。一度きり観た舞台を、父親が働く金属加工工場の工具箱の上に再現し続ける少女は、幕が降りたあとも「観客」であり続ける。そんな少女の人生は縫い子さんにとってドラマチックなものと映り、縫い子さんを唯一の「観客」にする。やがて、少女の思いを守りたい縫い子さんの気持ちは、彼女自身を、手紙のなかでシルフィードを「演じる」ことへと誘う。舞台に夢中になること、それがどんなふうに個人の世界を変え、周囲に波及していくかを、静かに、しかし雄弁に語る短編だった。
「すべては少女の腕の中で起こる。工具箱の四角い囲いが、少女を守っている。上履き入れの中に次の返事が届いているのを、彼女はまだ知らない」
もしかしたらあの劇場で隣に座っていたふたりが彼女たちだったのかもしれない、と思わせるような一編目を経て、読み手を幻想の世界へ引き込むのが、二編目の「ユニコーンを握らせる」。テネシー・ウィリアムズの戯曲『ガラスの動物園』をモチーフに、同作のヒロイン・ローラに選ばれながら舞台に立つ日を迎えないまま引退した〝ローラ伯母さん〟と、入学試験のためその家に泊まることになった語り手を描く短編だ。その「劇場」は、伯母さんの家そのものである。彼女の家の食器すべての底に、ローラの台詞が書かれており、語り手が料理を食べ終わるたび、伯母さんはその場面を演じる。
「私は拍手をした。これはお芝居なのだから、拍手をすべきなのだ、どうしてもっと早く気づかなかったのだろう、と思った」
観客を持たない女優は、本来哀れむべきものだ。しかし、劇中では失われるローラのユニコーンの角を、誰にも明かさずある方法で取り戻そうとする彼女は、誰よりも自由に感じられる。
奥歯のブリッジと歯茎の隙間から生まれ出る「白い生きもの」に悩まされる女性と彼女が通う鍼灸院の院長のかかわりを『オペラ座の怪人』にからめて描く「鍾乳洞の恋」、交通事故をきっかけに『レ・ミゼラブル』の全通を思い立った女性が帝国劇場に住む「失敗係」の仕事を目撃する「ダブルフォルトの予言」。かつて雇われた屋敷での役割をコンパニオンが振り返る「装飾用の役者」、ストラヴィンスキーの『春の祭典』を聞くうちに子供時代の出来事を思い出す「いけにえを運ぶ犬」、逗留した温泉保養所で奇妙な品を売りつけられそうになる「無限ヤモリ」。それぞれが芝居の一幕のような重みを持つが、読み手の現在とも重なる「観客」の業を徹底的に描くのが、五編目の「花柄さん」だろう。ある中年女性の孤独死とそのベッドの下、底板を押し上げそうに詰め込まれた堆積物の描写を導入に、女性――通称・花柄さん――の観客人生が描かれる。「観客」とは書いたが、彼女は劇場に行っても芝居そのものを見ない。舞台の余韻をまとった役者たちを楽屋口で待ちプログラムにサインをもらうことが彼女の観劇だ。演劇好きからすれば邪道な行為だ。役者から距離を詰められると逃げる彼女は、「ファン」とも異なる。しかし、彼女だけの論理と切実さを抱えている。
「時折、花柄さんは部屋の床一面にプログラムを敷き詰め、ベッドの上に立ってそれを眺めることがあった。そうやってみると、ばらばらのはずのサインがなぜかあらかじめ相談し合ったかのように、各々、与えられた形と位置を守りながら一続きの模様を描き出しているのが分かった。夜空に瞬き、航海の道しるべとなる星座のように、ただ一人、花柄さんだけを導くため の、延々とどこまでも続いてゆく、終わりのない模様だった」
彼女が観客と言えるかどうかは、長引くパンデミックに座るべき席を奪われた私たち自身をなんと呼べばいいのかとつながる問いに思えた。あるいは、「推し」という言葉にもたれかかり、役者とのつながりや観客同士の交流といった副産物に拠り所を求める人々を、「観る」行為そのものの神秘性へと立ち返らせる物語とも。
孤独に観た者だけがたどり着ける場所が確実にあるのだ、とこの本を読むと思う。観ることは、祈ることなのだ。客席の外からでさえ、舞台を一心に見つめる限り、私たちは観客でいられる。劇場という宇宙にかかわる全ての存在と、ひとりひとりの孤独を言祝ぐ一冊だ。