フィールダー

フィールダー

著者:古谷田奈月

迎え撃て。この大いなる混沌を、狂おしい矛盾を。
「推し」大礼賛時代に、誰かを「愛でる」行為の本質を鮮烈に暴く、令和最高密度のカオティック・ノベル!

ISBN:978-4-08-771807-2

定価:2,090円(10%消費税)

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内容紹介
総合出版社・立象社で社会派オピニオン小冊子を編集する橘泰介は、担当の著者・黒岩文子について、同期の週刊誌記者から不穏な報せを受ける。児童福祉の専門家でメディアへの露出も多い黒岩が、ある女児を「触った」らしいとの情報を追っているというのだ。時を同じくして橘宛てに届いたのは、黒岩本人からの長文メール。そこには、自身が疑惑を持たれるまでの経緯がつまびらかに記されていた。消息不明となった黒岩の捜索に奔走する橘を唯一癒すのが、四人一組で敵のモンスターを倒すスマホゲーム・『リンドグランド』。その仮想空間には、橘がオンライン上でしか接触したことのない、ある「かけがえのない存在」がいて……。

児童虐待、小児性愛、ルッキズム、ソシャゲ中毒、ネット炎上、希死念慮、社内派閥抗争、猫を愛するということ……現代を揺さぶる事象が驚異の緻密さで絡まり合い、あらゆる「不都合」の芯をひりりと撫でる、圧巻の「完全小説」!
古谷田奈月『フィールダー』刊行記念インタビュー

【書評】憤怒を纏い、尚も生き抜く理由

西川美和

 とても感動した文言をまず抜き出す。
「一年と三十万字くれ」「紙幅なんだ。すべては紙幅だ。言葉が全然足りないんだよ。複雑なことを複雑なまま伝えないから自殺や差別がなくならない。人間は、本当は、単純さに耐えられる生き物じゃないんだ」
 これは大手総合出版社に勤める主人公が、同期の週刊誌記者に叩きつけた言葉だが、この小説を評する上でも同じことが当てはまると思う。自分の評のまずさを言い訳するつもりじゃないが、まさに複雑なことを複雑なまま、膨大な文字数をして作者が丹念に伝えたものの断片をこの紙幅に書き出す試み自体に、ためらいを感じてしまう。どんな評より、そのものを読む方が良い作品だと感じたことは強調しておきたい。
 主人公の橘は、人権問題を扱う小冊子の副編集長である。同時に、夜ごと十一時にはきっちり帰宅してスマホゲームの「フィールド」に繰り出し、顔も知らない仲間同士で翼を持つ竜との戦いに興じる。いや、興じているのではない。そっちが彼の主戦場なのだ。そうはっきり言いきる。
 不自由しない家庭に育ったが、中学時代に部屋でゲームに没頭していた最中、一人の級友が父親に殴り殺された知らせが入った。それを契機に級友を取り巻いてきた貧困や障害や暴力を知ることになる。ゲームどころではなくなった。そのことが、たまらなく迷惑だった。「誰が聞いても気分が悪くなるような死に方をする奴がいる限りぼくの戦いは一生〝それどころ〟呼ばわりされ続ける。まずこっちをなんとかしなくちゃいけないんだと」。橘が社会問題に目を向け、行動するのは「やむをえず」なのだ。リアリストの同輩や読者に鼻白まれるほど青々とした善意ではない。
 しかし「なんとかしなくちゃいけない」現実の不公正やひずみも、巨大な竜のようなものだろう。デモや炊き出しや雑誌の記事で解決する社会問題など滅多にないし、当事者でない人間の差し伸べるきれいな手は、どこまでも抑圧や貧困の心臓に触れることはない。橘は足場を失って、再びゲームの世界に居場所を見つけている。
 仮想の「フィールド」は、性別、年齢、キャリア不問な社会で、参加者のアバターは現実生活の役割から解き放たれ、協力し、武器を放ち、命をかけて躍動する。課金で大枚をはたき、存在もしない竜の退治に全ての知恵と体力を注ぎ込むことに疑問符を浮かべる者には、彼らよりも濃厚な日常があるだろうか。際限なく飛び交う、幼稚で下品で、それでいて互いの垣根を軽々と越えるチャットのやりとりに、私は敗北感を募らせた。人間の言葉もつながりも生の実感も、もはや本物はこっちにあるのかもしれない。
 一方の現実世界では、橘が十年以上担当してきた児童福祉の専門家・黒岩文子に小児性愛の疑いがかけられる。黒岩は絵本作家の夫と義理の娘と一匹の猫と、成熟とリベラルを絵に描いたような暮らしをしていたが、ある時から近所の一人の少女と過度に親密な関係を育んでいたことを週刊誌記者にかぎつけられていた。姿をくらました黒岩から橘に届いた長いメールの中には、少女との思いがけぬ関係の移ろいや体の接触についても詳細に綴られるが、その交わりが「小児性愛」なのかそうでないのかは私には判別がつかない。専門家の黒岩自身は「違う」と断言する。けれど一つの「愛」が芽生えたことには違いなく、またそれが世間からも家族からも弾劾されるものだと彼女が認識した瞬間、人格の礎になってきた知性も、社会を守る使命感も、家庭への帰属意識も、音を立てて崩れてゆく。愛がなくても人は生きる。けれど一度生まれた愛を潰されると、人の意識は死に向かう。
 居場所を追われた者の弱々しい失意ではなく、むしろ猛々しい憤りとともに世界との決別に向かう黒岩を、橘は「なんとか」しようとする。黒岩の愛の是非も問わず、ひたすらこの世界に彼女を【止/とど】めようとするのだ。なぜだろう? なぜ、生きなければならないのか。その憤怒を含んだ問いは全編にちりばめられる。世の中を良くするためと唱えられる言説やテクノロジーは、実際は世界をより息苦しい場所に変えてしまい、再生を試みられる「自然」も「地域」も「共生」も胡散臭いハリボテだ。限界とは思わないか? お前はそれでもこの世界に生きたいか。この世界を続かせる価値などあるのか。
 主人公を取り巻く誰もが、強固な理屈を用意している。黒岩も、黒岩の夫も、ゲスなネタで回転し続ける週刊誌の女も、女性読者からの抗議など屁とも思わない少年漫画誌の男も、挨拶がわりに相手を軽んじ、より鋭利な言葉を被せ、グロテスクなほどの正論で互いを追い詰め、この世を生き抜く勇気を削いでいく。――それに比べて、「うんこww」という言葉の連投で交り合うチャットの対話の安らぎと言ったら。
 橘は、追い込まれている。現実世界では、ゲームの中で入手できるような武器も盾もないのに、黒岩だけでなく思いがけずもう一人、抱えてしまう。誰にもプログラムされていない感情に、それどころではないタイミングで出くわしてしまう。本来抱える必要のない存在を心の中に抱きしめて、仮想空間ほど美しくデザインされていない野原を橘は駆けずり回る。その姿に翼はないが、生命の力に満ち溢れている。
 これは作者の意図とは異なるかもしれないが、私はふと、橘は級友の死という因果を背負わなかったとしても人を助けるのではないか、とも思った。人間は矛盾し、腐り、残虐をはたらくが、時に利他に走らずには浮かばれない生き物だからである。橘は生きるために助けるのだ。人にとって、誰かを助けること以上に、思いがけぬ幸運はない。だから決して許容できない誰かにもまた、助けを求めてみる。それは断絶した他者に対して送ることのできる「生きていろよ」というサインではないか。瀬戸際にある世界を続けていくためのヒントとともに、壮大な物語は幕を閉じていく。