裸の大地 第一部 狩りと漂泊

裸の大地 第一部 狩りと漂泊

著者:角幡唯介

『極夜行』後、再び旅する一人と一匹に、いったい何が起こったか。
GPSのない暗黒世界の探検で、日本のノンフィクション界に衝撃を与えた著者の新たなる挑戦!

ISBN:978-4-08-781714-0

定価:1,980円(10%消費税)

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内容紹介
探検家はなぜ過酷な漂泊行にのぞんだのか。未来予期のない世界を通じ、人間性の始原に迫る新シリーズの第一作です。
「この旅で、私は本当に変わってしまった。覚醒し、物の見方が一変し、私の人格は焼き焦がれるように変状した」(本文より)

【書評】時空の制約から解放される旅へ

荻田泰永

 著者の角幡唯介は、二〇一一年にカナダ北極圏を百日以上かけて一緒に歩いた仲間だ。当時、二人でそれぞれ一台のソリを引きながら、目的地を目指す冒険を行っていたが、近年の彼は犬橇による狩猟主体の旅を行っている。それは、大地との自己同一化、彼の言葉を借りるならば「土地に組みこまれた存在」となるための旅である。
 私を含め、現代の極地冒険家のスタイルというのは、食料などの物資を搭載したソリを自力で引きながら、北極点や南極点といった目的地を目指すものだ。一方で、角幡が本書で目覚めたのが、狩猟により食料を自給しながら進めていく旅であり、どこか明確なゴールに到達するのではない「漂泊」を目的とした旅である。
 私は二〇年以上、現代的な冒険を行っている。ソリを自力で引いていくスタイルであるが、私がソリに搭載している食料というのは、本質的には食料ではなく「時間」である。我々は、ソリに時間を載せて歩いている。この食料が続く限り動ける時間が、私に与えられた「時間」であり、その中で目標とした「場所」に辿り着く必要がある。我々現代の冒険家には、行為の前段階において既に規定された時間と場所がある。それは、時空の制約下で行われる行為なのだ。
 角幡が試みるのは、時空の制約から解放される旅である。狩猟主体で食料を自給することができれば、理論上は獲物さえいればいつまででも旅を続けることができる。時間の制約も、またそれによる空間的な制約も受けない。これは、冒険家や探検家といった人々がやってきたことではなく、北極に住む先住民イヌイットたちが数千年間続けてきた営みだ。角幡は探検家といった来訪者の位相から、より土地に根ざした生活者に近付こうとしている。
 狩猟を主体とする生活者として旅を続ける行為は、極めて偶然性に支配される世界に身を置くこととなる。獲物がそこにいるかいないかというのは、人為的に制御できるものではない。しかし、私も北極の環境に長く身を置いていると、土地ごとの傾向であるとか、動物が棲息するための条件などが次第に把握できるようになる。自らの経験や技術によって、偶然性の領域に必然性で繫がることができる。角幡は、本書で「自由な旅とは、経験知や技術といった内在的なものを根拠に移動ができるようになることだ」と書いている。自由な旅とは、自分の思い通りに事前の想定で事態を制御できる旅ではない。制御不能な偶然性に支配される世界において、土地と自分自身との純粋な関係性を築き、第三者的な情報や技術を頼りにすることなく主体的に旅をすることだ。偶然とは、無から生じる突発的現象ではなく、過去と未来において必然の糸が絡まる場に立ち現れる現象のことだ。絡まる必然の糸を、一本ずつ自分の手元に手繰り寄せていくことで、結果的に発生する偶然性につながっていく。
 私自身、北極や南極といった自然の中を一人で歩くことについて「自然の中では何が起きるか分からないでしょう」ということをよく言われる。が、これは間違っている。実は、我々には自然の中で何が起きるかは殆ど分かっている。いや、次第に分かるようになってくる。分からないのは、それが「いつ」「どこで」起きるかである。必然の糸がいつ、どこで絡まり、偶然が立ち現れるかが分からないだけだ。北極の自然の状況や、動物の生態については、数多くの文献もあれば経験者もいる。現地のイヌイットたちに話を聞けば、沢山の経験を教えてくれる。その中に「何が起きるか」のあらましは語られている。もし、我々のような行為者で「北極では何が起きるか分からない」と、責任を極地の環境に外部化して語る人がいたとしたら、それは単なる勉強不足でしかない。
 オランダの歴史学者ヨハン・ホイジンガは、代表作「ホモ・ルーデンス」の中で、人類の文化を遊びの層の下に考察した。ホイジンガの定義によれば、遊びには「時間的空間的な制限がある」という。演劇であれば舞台と上演時間に制限がある。スポーツも宗教祭祀も同様だ。我々の行う冒険もまた、時間と空間の制約の中での活動である。しかし、北極で生きるイヌイットたちは、その日々がいつ終わるかは死によって規定される。それが「生活」である。角幡は、遊びであった冒険探検の領域から、生活者の営みに踏み出そうとしている。
 ところが彼は、日本で家族が待つ来訪者だ。グリーンランド滞留のビザの都合であるとか、様々な要因で帰国の日が来ればその日々は終わる。グリーンランドという場所と滞在日数という、時空の制約の中での営みであることに変わりはない。北極の生活者に近付くことはできても、完全には成り得ないという、その隔靴搔痒に対してこのシリーズは今後どのように向き合っていくか、それもまた読みどころだろう。
 しかし、完全には生活者に成り得ないからこそ、そこに近付こうと試行錯誤が生まれる。触れられないからこそ、接近を試みる。その志向性と、憧れのような極めて個人的な営みこそが探検である。旅の手法も動機も全てが内在化された時、角幡自身による独自の時空が北極の中に生まれる。
 実際にこの本を読んでも、殆どの読者は戸惑うだろう。「いったい、どこで何をしているんだろう?」という疑問が湧くはずだ。私には見知った世界なので文章から現地の様子を想像できるが、ほぼ全ての読者はそうではない。しかし、その疑問を側に置いておいても読ませる魅力がある。人はなぜ冒険するのか? その永遠のテーマに対して、答えは出ずとも接近を試みる志向性こそが、本書の持つ魅力である。永遠に繰り返される試行錯誤を同時代に読める幸せを感じながら、稀代の作家にして極地旅行家の最新作を楽しんでもらいたい。