燕は戻ってこない

燕は戻ってこない

著者:桐野夏生

この身体こそ、文明の最後の利器。

29歳、女性、独身、地方出身、非正規労働者。
子宮・自由・尊厳を赤の他人に差し出し、東京で「代理母」となった彼女に、失うものなどあるはずがなかった――。

『OUT』から25年、女性たちの困窮と憤怒を捉えつづける作家による、予言的ディストピア。

ISBN:978-4-08-771761-7

定価:2,090円(10%消費税)

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内容紹介
北海道での介護職を辞し、憧れの東京で病院事務の仕事に就くも、非正規雇用ゆえに困窮を極める29歳女性・リキ。「いい副収入になる」と同僚のテルに卵子提供を勧められ、ためらいながらもアメリカの生殖医療専門クリニック「プランテ」の日本支部に赴くと、国内では認められていない〈代理母出産〉を持ち掛けられ……。
桐野夏生『燕は戻ってこない』刊行記念インタビュー

【書評】「プロセス」としての非母性まで

斎藤環

 桐野夏生の新作『燕は戻ってこない』は、サロゲート・マザー(代理母)がモチーフの一つである。これは扱いようによっては大怪我をしかねない、きわめてクリティカルなテーマだ。ちなみに、かつて松田聖子がハリウッド進出を目指して出演した映画『サロゲート・マザー』(1996年)は、代理母の設定はほとんどおまけのようなサスペンス作品だった。本作ではまさに代理母の主題が中心に据えられ、物語を推進させる。人は誰も死なないが、むしろ生まれる子どもを巡ってのミステリーとして巧みに構成されており、最後まで一気呵成に読み進んでしまった。
 北海道で勤めていた介護施設の職を辞して上京した二十九歳の女性、リキこと大石理紀。彼女は東京の病院で非正規の事務職に就くが、薄給ゆえに生活は苦しかった。そんなおり、同僚のテルから卵子提供のアルバイトを勧められ、生殖医療専門クリニックの扉を叩く。ところが予想もしなかったことに、日本国内では認められていない〈代理母出産〉を高額の報酬とひき換えに提案される。ちなみに、依頼を受ける側の女性(この場合はリキ)の卵子を用いて人工授精をして懐胎する場合が代理母であり、依頼する側の女性の卵子を用いた受精卵を、依頼を受ける側の子宮に着床させて懐胎する場合は借り腹(ホスト・マザー)と呼ばれる。
 代理母に関連して今も記憶に新しいのは、二〇二〇年四月、ある女性誌に掲載された対談が炎上した事案である。再炎上を防ぐために匿名とするが、問題となったのは、さる著名な女性アーティストとモデルとの対談だった。二人が語る、女性がキャリア形成のために卵子凍結をしたり代理母を活用したりするのは当然の流れといった論調は、広い範囲で物議をかもして炎上し、Webへの転載記事は削除され、当のアーティストがSNSで釈明するという事態に至った。
 卵子凍結はともかく、代理母が炎上したのには、やむを得ない事情がある。代理母を利用する側と利用される側には経済的な格差があり、結果的に代理母の利用は、貧困女性の搾取になってしまう。パワーエリートとも言える二人の女性が、キャリア形成を妊娠出産で途切れさせないために代理母の利用を肯定的に語りあう姿には、代理母として搾取される側の女性に対する想像力が欠けている。この点こそが、厳しく批判されたのである。
 リキに代理母を依頼してきたのは、著名な元バレエダンサーの草桶基とその妻・悠子だった。まさにセレブの夫妻が貧困女性を代理母に仕立て上げる典型的な構図である。この設定の巧妙さには舌を巻く。一般論として言えば、男性が代理母を使ってまで子どもを欲しがる可能性は決して高くない。しかし、バレエダンサーともなれば話は別だ。ダンサーの身体能力には遺伝子が決定的な影響を及ぼす。草桶が、自身の遺伝子がどんなふうに発現するかを見てみたいと切望するのは、職業柄、ごく自然な欲望だろう。子どもをあたかも所有物のように考え、強制的にでもバレエを習わせたいと考えるのも、バレエ名家の血筋を絶やしたくないという強烈な想いゆえと思えば、ぎりぎり許容範囲とも言える。バレリーナの妻を捨ててイラストレーターの妻と再婚しただけに、妻が不妊と知ってからは元妻に張り合うように子を欲しがる姿は、共感は難しいが理解は出来る。
 実は私は、本作のかげに、本作とは対照的なもう一つの傑作の残響をしきりに聞いていた。川上未映子『夏物語』である。『夏物語』のヒロイン・夏子は、本作に登場する日本画アーティストのりりこに似て、性的欲望の乏しいアセクシュアルに近い女性だ。夏子は非配偶者間人工授精(AID)による妊娠を希望する。AIDとは「夫以外の第三者から提供された精子を子宮内に注入して妊娠をはかる方法」なので、なされていることはリキの妊娠にきわめて近い。
 しかし『夏物語』の主題のひとつは「反出生主義」である。登場人物の一人である善百合子によれば、一定の確率で苦痛に満ちた生をもたらす可能性があるのに、あえて子どもを作るのは親のエゴではないか、ということになる。夏子はこの主張にも共感しつつ、あえてAIDによる妊娠と出産を選択した。その結果到達したのが、あの、母性とはかぎりなく隔たった特異な出産シーンだった。
 あえて対比的に考えるなら、本作は「反出生主義」とは対照的な風景を描いている。もちろん、単純なアンチなどではない。そもそもリキにしてもテルにしても、貧困に喘ぐあまり卵子提供に思いいたったわけで、せっかく産んだ子どもが彼女らのような境遇になるなら、生まれることが本当に幸せかどうか懐疑的になるほうが自然だ。
 しかし桐野は、本作においても、「関係性」の中で人が変わっていく姿をきわめて説得的に描く。風俗のバイトをしていたテルが結婚して家族と暮らすようになり、純血性にこだわっていた基は父親がたとえ自分ではなくとも子を育てていく決意をする。蚊帳の外に置かれて一度は別れを決意しかけた悠子は、やはり基と復縁して子育てをしていこうと思い直す。しかし何と言っても一番大きく変貌したのはリキだ。彼女は、一度は中絶をしようと決めながらも、「セラピスト」のダイキの説得であっさり翻意する。そして、出産を経て最後の最後に、驚くべき決断に到達する。単なる母性の目覚めを越えた、凜然とした「出立」の決意。
『夏物語』がテーマとした「反出生主義」には、人生には幸不幸で評価が決まる「ゴール」が存在するという発想があるように思う。一方本作のスタンスは、一貫して「人生にはプロセスしかない」と言いたげだ。二つの小説が単なる母性礼賛に着地することなく、それぞれが「ゴールとしての非母性」、「プロセスとしての非母性」を描きだした点を評価したい。二つの傑作が並び立ったことで、「文学における女性性」は新たな「多様性」を獲得したのだ。