ミシンと金魚

ミシンと金魚

著者:永井みみ

【第45回すばる文学賞受賞作】
花はきれいで、今日は、死ぬ日だ。
暴力と愛情、幸福と絶望、諦念と悔悟……認知症を患う“あたし”が語り始める、凄絶な「女の一生」。
現役ケアマネージャーが放つ衝撃のデビュー作!

ISBN:978-4-08-771786-0

定価:1,540円(10%消費税)

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内容紹介
「カケイさんは、今までの人生をふり返って、しあわせでしたか?」
ある日、デイサービスのみっちゃんから尋ねられた“あたし”は、絡まりあう記憶の中から、その「しあわせ」な来し方を語り始める。
母が自分を産んですぐに死んだこと、継母から薪で殴られ続けたこと、犬の大ちゃんが親代わりだったこと、亭主が子どもを置いて蒸発したこと。やがて、生活のために必死にミシンを踏み続けるカケイの腹が膨らみだして……
生まれて、老いて、やがて死ぬ。誰もが辿るその道を、圧倒的な才能で描き出すデビュー作。
金原ひとみ×永井みみ すばる文学賞受賞作『ミシンと金魚』刊行記念対談

【書評】コロナ時代に花開く死への想像力

斎藤真理子

 ミシンと金魚という、どこか昭和な取り合わせ。そして物語は、令和の高齢者の一人称で語られていく。
「病院というとこは、すかない」
「じいさんにうまれなくて、しみじみよかった」
「みんな、たいがいのとしよりは、後悔してる」
 そして、
「ああだけど、職のつかないこんな手にも、きれいな花が咲くんだねえ」。
 主人公は夫に逃げられ、ミシンの仕事で子供たちを育ててきたおばあさん、安田カケイ。進駐軍の奥さん用の下着を縫っていたというのだから、たぶんもう九十代ではないだろうか。朝、ベッドから起き上がるのにも苦労するほどだが、がんばって自分の家に住んでいる。訪問看護師とヘルパーが来る日と、デイサービスに行く日と、もう死んだ息子の妻が来る日がある。
 のっけからしゃべる、しゃべる、足踏みミシンを踏むリズムで、しゃにむに生きてきた人生がカタカタめりめりと語られていく。介護されるカケイだけでなく介護する側についても、それぞれの動きがしっかり描かれ、コントロールされている。いわば時計の長針と短針を留める中心がピタッと合っているようで、気持ち良い。
 どこに行ってもしゃべっているので、医師が「興奮状態をしずめてやらないと」と言い出し、勝手に抗躁剤を処方されそうになるカケイ。その薬を飲むと下痢しやすくなり、軟便まみれになって苦労したりするのだ。病院につきそってきてくれる介護スタッフはそれを知っていて、「カケイさんが先生のお母さまだったとして、それでも先生はおなじ薬を処方されますか?」ときっぱり断ってくれる。カケイは人間関係に恵まれている。
 カケイのお話は時間軸がぐらぐらして、しょっちゅう前後して、塗り重ねられていく。同じ人が死んでいたり生きていたりする。でも、カケイにはカケイの秩序がちゃんとある。認知症という概念や言葉ができるずっと前から、こんなふうに世界をとらえていた人はいっぱいいるはずだ。波が寄せては返すように面白くなったり普通になったりしながら、ときどき、コロナ時代の日本の現実にどかんと乗り上げる。介護士たちはなぜ色のついた制服を着ているのか、それは「白衣着てるのより位が低いのが一目瞭然だからだ」とか、このデイケア施設も「ただでさえコロナ怖いって利用者減ってて、経営もギリッギリてゆうか、すでに身売り先探してるっぽい」とか。気づくとすっかり語りの世界に引き込まれて、打ち上げ花火を見守るようにうっとりしてしまう。糞便、尿、血、借金と薬と暴力のオンパレードなのに、徐々に得体のしれない祝祭感が湧いてきて、救われてしまいそうな気持ちになる。
「あたしはいったい、いつまで生きれば、いいんだろう」
 カケイはそう問いかけるが、そんな「素」の言葉が「素」のままで読み手に照り返してくるのは、めったにあることではないだろう。やがて、ミシンと金魚はカケイの全盛時代の象徴なのだとわかってくる。ミシンと金魚の間に、カケイがいちばん大事に思っていた存在がいる。長い時間が流れた後になってやっと、あれが全盛時代だったとわかる、太陽をいっぱいに浴びていた日の記憶。
 そして、この小説はコロナ時代に誰もが夢に見る理想の終末像ではないかと気づく。人の手を借りずに生きられない高齢者の暮らしは忙しくせわしいが、嫌な人は相対的に少なく、いても誰かがカバーしてくれる。人生の最後になって、自分は守られてきたのだと気づき、長く縁のあった人に謝り、謝られ、若い人たちを思いやる心の余地もある。そして長い闘病も、医療の過剰介入もなく、自宅で。
 著者は介護の現場をよく知る人であり、新型コロナウイルスに感染して死を覚悟し、回復後にこの小説を完成させたそうだ。人が持ちうる死への想像力がフルに使われ、そこでは同時に介護現場の人々の内面もていねいに扱われている。
 カケイは自宅で一人で出産し、裁ちバサミでへその緒を切るような勇気ある人物だが、それが決して武勇伝にならないのは、精緻に計算された文体と構成のおかげだろう。一瞬、「あれっ?」と思うと必ず、何行か後、何ページか後に答えが追いつく。カケイがある人たちを呼ぶ呼称の秘密がわかる瞬間などは、ほんとうに花が開くようだった。それは認知の歪みなどではなく、存在の花のようなものだ。
 豊富で個性的な擬音、比喩、地方語ともいえないぐらいの発音のクセや語尾に細かい神経が払われて強い文体を作っている。それだけに読み手によっては、ほんのちょっとしたニュアンスが気になる一瞬があるのかもしれない。精緻であればあるほどそういうものかもしれなくて、ないものねだりなのだろうが。
 とはいえそんなのは小さなことだ。大事なのは、コロナの時代に人の死に方をよく考え、人の生き方についてこんな物語を書いた人がいたということだ。一種のDV被害者であり、すさまじい喪失を味わったカケイをこれほど幸福に描くのは、今の時代と未来への祈りなくしてはできないことだろう。愛し愛され、守られてもいた人間が死を恐れない様子は現代の来迎図とも思え、何だかわからない光に満たされている、それが何の光なのか、読んで確かめてほしいと強く思った。私もいつか認知症になるのだろうが、覚えていられる間はこの小説のことをずっと覚えていたい。