女優

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著者:大鶴義丹

小劇団を主宰する私は、昭和を代表する女優のひとり息子として生まれた。
大女優である実の母との葛藤を胸に、〈母への復讐の物語〉を演出する──。
テレビ、映画で活躍する著者による、10年ぶりの最新長編小説。

ISBN:978-4-08-771778-5

定価:1,870円(10%消費税)

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内容紹介
「女優の子供って大変なんですか?想像もできない人生です」

小劇団を主宰する私は、昭和を代表する女優のひとり息子として生まれた。
大女優である実の母との葛藤を胸に、〈母への復讐の物語〉を演出する──。
テレビ、映画で活躍する著者による、10年ぶりの最新長編小説。

「小学校一年、初めての登校日、学校中から「ジョユー」と呼ばれたときに、自分を可愛がってくれているのは母ではなく「ジョユー」という生き物なのだと知った。幼い私にとっては酷く恐ろしいことであった。
その「ジョユー」という生き物と、私は初めて同じステージで対峙する」(本文より)
大鶴義丹×金守珍『女優』刊行記念対談

【書評】母と息子の運命の対決

長瀬海

 母であり、昭和を代表する大女優。二重の偉大さを引き受け、その役回りを見事に演じ続けた姿をいつも見ていた。畏怖。尊敬。愛。この小説は、そうした複雑な気持ちを前に、常に押しつぶされそうな思いを味わってきた一人の息子の物語だ。あるいは、こう言うべきかもしれない。スターとしての母に対してずっと抱えていた名状し難い感情の正体を探っていくなかで導かれた、ある演劇人の人生の結論を綴った書だ、と。
 語り手の「私」は、自身で立ち上げたアングラ系の劇団の座長である。妻のフキコが書く脚本をもとにした「私」の演出は、業界ではそれなりの評価を勝ち取っているものの、暮らしぶりは非常に貧しい。だから五十一歳にして、いまだに知人の運送会社を手伝いながら生計を立てている。
「私」が五歳の頃に事故死した父もアングラ劇団の団員だった。父の所属していた劇団には伝説的な事件がある。それは、新宿にある都の敷地で芝居を行うことをめぐって役所と喧嘩になり、公演を強行した彼らと機動隊が取っ組み合いになったというもの。作者が大鶴義丹であることを考えれば、唐十郎の状況劇場の逸話がベースになっているのは容易にわかる。だが、作中の父は、一連の出来事を隅で怯えながら見ていたと語られるほどに存在が弱い。その分、強いのは母だ。貧しい家庭で育ち、激動の昭和を生き抜いてきた母は、高校時代に演劇に出会う。生活苦に喘ぐ日々にあって、やりたいことがやれるわけではない。しかし、「芝居は身体だけあればできる」もの。台本さえあれば、舞台の上で新しい世界を自在に作り得るのだ。小説は、そうした世界で実現されるものを「自由」と呼ぶ。だから母にとって芝居は「生きていくための道具や武器」であり、じぶんを檻から解き放つ手段だった。そうして戦後をスターとして駆け抜けた母は、「芝居だけで自由とお金を世間から奪い取ってきた」のだ。
 母が獲得した自由。それは昭和という、戦後の焼け野原から全てを作り出してきた時代の戦いの対価だ。だから、この作品に描かれる母=星崎紀李子は、昭和のエネルギーのほとんど最後の体現者なのである。もちろん、「私」の母と作者・大鶴義丹の母を混同してはならないだろう。だけど、星崎紀李子が見せるエネルギーは、作者がエッセイ集『昭和ギタン』でかつて描いた、朝鮮人集落出身で、「脚本と仲間だけいれば、あとは一銭もかからない「演劇」」を志した母のそれと不思議と合致する。このことが教えるのは、大鶴義丹がじぶんの母を小説に描いたということではない。前掲のエッセイ集で、生の拠り所となるのは「自分のこぢんまりとした昭和の物語」だと綴っていた作者にとって、母とは自身を過去から現在にかけて縛り続ける存在だった。だとすれば、語り手の「私」が母と対峙するとき、それは自身を生涯ずっと捉えて離さないものの姿を暴く、そのための真剣勝負の瞬間を意味するのではないか。
 母に甘えることもできず、彼女を恐れながら育った「私」は、母と娘についての芝居を作ろうとする。フキコが書いた脚本は、次のようなもの。ツバキという女性が同じバーで働く元美大生のゲンキと恋に落ちる。ツバキがゲンキに複雑な母娘関係を語っていくうちに、幻影のツバキが現れる。肉体の老いた母が自身の代わりに、娘に命じたのは売春だった。母と共依存状態にあるツバキは、その命令に従わざるを得ない。だが、芝居の終盤、彼女は呪縛を断ち切るために、母を刺すのだった。
 つまり、マザーコンプレックスが主題の母殺しの物語だ。歪な母への愛情に苦しむツバキは実体と幻影に分かれる。複雑な掛け合いが見せ所の二人のツバキを演じるのは、経験豊かな舞台女優の花山キミ子とアイドル上がりの寺下ジュン。おぼつかない演技を見せるジュンは、だけど、どこか艶やかな魅力がある。「私」は知らず知らずのうちに蠱惑的な振る舞いの彼女に惹かれてしまう。座長としての矜持と男の脆さの間を往還するなかで「私」は、ジュンの力を最大限に引き出し、劇団を未成の混沌から秩序の方へと導いていくのだ。
 今回の芝居で鍵となるのは、ツバキの母だ。じぶんの身勝手な生き方で娘を縛りつけようとする母。「私」はそんな役を自身の母である星崎紀李子に演じてほしいと願い出る。脚本を読み快諾した母は、息子の舞台を最後に引退することを決意する。母の女優としての怪物ぶりを知っている「私」は、彼女を劇団に引き入れることが何を意味するのか重々承知だ。座長として、母の演技を演出できるのか。母と息子の運命の対決が、こうして始まる――。
「私」は幼い頃、同級生に「ジョユー」と揶揄された。成長するにつれ、その言葉の意味を悟った「私」だが、じぶんの劇団で怪演を見せる母を前に「俺はあの女優のことを、何も知らなかった」と愕然とする。「ジョユー」というカタカナの内実を、昭和の大女優たる母の最後の肖像を描きながら確かめていくのが、この作品の目指すところだ。思えば、大鶴義丹の前作『その役、あて書き』も女優という悪魔的な職業に焦がれる人間の弱さと強さを描いた作品だった。一人の映画監督が芸能界の裏で女優でありたい気持ちに翻弄される女性たちとの出会いを通じて、じぶんの目指す芸術を摑み取る。人々を魅了してやまない不思議な力を持つ女優とはいったい何者か。やはり女優の子として、その生態を知悉する作者はそうした問いの答えを小説を通じて模索してきた。今作では、そこに母であることという更に難解な存在様式が加わる。だが、作者も語り手も、決して逃げはしない。じぶんが生まれてからずっと囚われてきたものの正体を、その眼で確かめるべく、母と真摯に対峙するのだ。
 母娘の愛憎劇の舞台に立とうとする母は、息子の前で、真実の母の愛を見事に表現する。深淵で、あまりに尊い、そんな奇跡のような演技を、ぜひその眼で目撃してほしい。