我が友、スミス

我が友、スミス

著者:石田夏穂

前代未聞の筋肉文学、誕生!
ボディ・ビル大会の出場を目指す会社員が
挑んだのは「女らしさ」との闘いだった――。

ISBN:978-4-08-744627-2

定価:572円(10%消費税)

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内容紹介
「別の生き物になりたい」。
筋トレに励む会社員・U野は、Gジムで自己流のトレーニングをしていたところ、
O島からボディ・ビル大会への出場を勧められ、
本格的な筋トレと食事管理を始める。
しかし、大会で結果を残すためには筋肉のみならず「女らしさ」も鍛えなければならなかった――。

鍛錬の甲斐あって身体は仕上がっていくが、
職場では彼氏ができてダイエットをしていると思われ、
母からは「ムキムキにならないでよ」と心無い言葉をかけられる。
モヤモヤした思いを解消できないまま迎えた大会当日。
彼女が決勝の舞台で取った行動とは?
世の常識に疑問を投げかける圧巻のデビュー作。
石田夏穂デビュー作『我が友、スミス』インタビュー

【書評】欲望と正しさを限界突破させるために

杉田俊介

 本書『我が友、スミス』は、女性ボディ・ビルダーの小説である。身長一五五センチ、二九歳の会社員U野は、自宅と職場の中間地点にあるGジムに通って自己流の筋トレをしていた。「スミス」とはスミス・マシン、「バーベルの左右にレールがついたトレーニング・マシン」のことである。U野はスミスに格別な愛着を抱くが、Gジムにはスミスが一台しかなく中々自由に使えない。
 U野はやがて現役引退したO島に見込まれ、彼女が立ち上げたNジムに移籍する。全国各地にフィットネス系の大会は星の数ほどあるが、O島はその中で最も「ガチ」な「BB大会」で七連覇した女性である。BB協会は戦後間もない頃から日本のボディ・ビルを牽引してきた老舗だという。本格的な訓練を開始したU野には才覚があり、新人ながら大会予選突破を期待されるまでになる。
 作者が実際の経験者なのかどうかはわからないが、ボディ・ビルの世界について知悉していなければ知りえないだろう細部の情報や運動感覚に、この小説は満たされており、それだけでも十分に面白い。
 ただしボディ・ビルも「女らしさ」という規範意識と無縁ではない。かつて女性ビルダーは白い目で見られ、男の真似をするなと笑われた。「それでも競技にしがみつき、自らの価値観を信じ続けたのがO島の半生だった」。それに対し近年は、女性の筋トレ人口も増え、大会も各地で開かれるようになった。しかしO島はその現状に違和感がある。女性のジム通いの理由の多くは美容や健康のためで、「筋肉をつけたい、力強くなりたい」という「古典的」な動機は激減したからだ。
 それだけではない。近年の大会では「女性らしさ」が審査対象となる傾向がある。たとえば「過度に発達した筋肉は減点対象」「女性らしい丸みは加点対象」とされ、「肌の美しさ」「表情」「ステージ上の所作」「イブニング・ドレスの着こなし」「知性・人格・誠実さ」等も審査対象となり、次第に「ミスコンの亜種」に近づきつつある。これはまさに近年言われるポスト・フェミニズム的な価値観――新自由主義的な価値観の中に「女らしさ」をたくみに取り込み、女性の解放を主張しつつそれを抑圧する仕組みのこと――そのものだろう。
 U野の訓練は過酷になり、生活と身体の全面的改造になっていく。一般的な意味での健康や美すら振り落としていくその過剰さには不思議なオカシみすらある。あらゆる「雑念」は消え、「私は、燃えていた」。U野は世間では馬鹿にされがちな「過度の真面目」さこそが「私の唯一にして最大の長所」という自己認識を得る。「自分の身体を美しいと感じ、そして、好きだと感じたのは、ほとんど初めてだった」。
 作者は少年マンガが好きなのだろう。「『ドラゴンボール』に登場する戦闘時の悟空を想像していただきたい」「『アイシールド21』に登場する進清十郎を想像して欲しい」「『あしたのジョー』のように」など、少年マンガへの言及が度々ある。U野は、魂のレベルにおける少年マンガ的な「熱さ」を倫理的に内面化しているかのようだ。実際に、ある種の少年マンガには、資本主義に適合した競争原理やマッチョさを突き進めたあげくそれを異形化=クィア化していく、という意味での「熱さ」がある。
 しかしそんなU野の心身の変貌をめぐって、会社の同僚男性からは「女性は大変ですね」と言われ、久々の家族の集まりの場では母親に「女の人が、あんなに鍛えちゃ変じゃない」と言われる。その時U野は、「愉しい」とどこか見分けがたいような「怒り」を覚える。
 では彼女の「愉しさ=怒り」とは、政治的正しさに基づくものなのか。ここは微妙である。私たちはしばしば正しさと欲望を対立させる。しかし、どうだろう。自らの固有の欲望をどこまでも諦めないこと、それこそが「大変」なほどに正しいのではないか。「そうか、女は大変か。きっと、それは正しいよ。だが、お前の言う『大変』と、いま私を突き動かしている『大変』は、恐らく別物だ」。
 U野はそもそも筋トレを始めた最初の動機を思い出す。「そうだ、私は、別の生き物になりたかったのだ」。U野は近年のボディ・ビルの世界を侵食するポスト・フェミニズム的なマッチョさと「女らしさ」の癒着になじめない。しかし他方でジェンダー規範を温存したまま、女性のマッチョ化を追い求める「クラシック」な価値観にも疎隔感がある。Nジムでの訓練すら「やらされている感」があった。U野の欲望はそこからも逸脱していく。自分は大会競技そのものに「向いていない」。U野にとっては「別の生き物」になるとは、「大会」という仕組みの中では不可能だった。「この競技は世間と同等か、それ以上に、ジェンダーを意識させる場なのだ」。大会の舞台でU野はハイヒールを脱ぎ捨て、ピアスを外し、「自分の思うままに遣り切」る。大会後はNジムをあっさり退会し、Gジムに戻り、ただの筋トレに没頭する生活に回帰する。
 本書を読みながら、二〇二〇年暮れのNHK紅白歌合戦の、氷川きよしのことを思い出した。氷川は『ドラゴンボール超』のOP曲「限界突破×サバイバー」を白い衣装で歌い、スモークとともに真っ赤な衣装となり、最後はゴールドになってワイヤーアクションで宙を舞った。
 白(男らしさ)でもなく、赤(女らしさ)でもなく。そして男女の二元論を超えて虹色へ――というのなら、わかりやすい。しかし氷川が限界突破した先にあったのは、虹色ではなくゴールドだった。なぜ金なのか。なぜ宙を飛ばねばならないのか。わからなかった。わからないからこそ、不思議な爽快さがあった。多様性をその複雑な差異のままに肯定するとは、こういうことか。共感不能で、意味不明で、爽快な欲望なのか。そもそもそれが虹色の意味なのだろうか。U野の「別の生き物」になりたいという欲望もまた、そういうものではなかったか。