僕たちはどう生きるか 言葉と思考のエコロジカルな転回

僕たちはどう生きるか 言葉と思考のエコロジカルな転回

著者:森田真生

史上最年少で小林秀雄賞を受賞した若き知性が2020年春からの「混沌」と「生まれ変わり」を記録した、四季折々のドキュメント・エッセイ!

ISBN:978-4-08-771757-0

定価:1,760円(10%消費税)

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内容紹介
未来はすでに僕を侵食し始めている。

未曾有のパンデミック、加速する気候変動……人類の自己破壊的な営みとともに、「日常」は崩壊しつつある。それでも流れを止めない「生命」とその多様な賑わいを、いかに受け容れ、次世代へと繋ごうか。

この時代に、心を壊さず、感じることをやめずに生きるための必読書。

【目次】
はじめに
春 / STILL
夏 / Unheimlich
秋 / Pleasure
冬 / Alive
再び、春 / Play
おわりに

【書評】今世紀の『エミール』

いとうせいこう

 数学を扱う独立研究者である森田真生の、『僕たちはどう生きるか』には連載時から度々、飛ばし読みながら目を通していた。文芸誌の真面目な読者ではないから、色々送ってもらう中でもきちんと読むところは多くないのだが、ここにだけは視線が止まって仕方がなかったのだ。
 なぜならおそらくまず日記体だったからだろうと思う。著者は京都での自らの家族との暮らしを書き、そこから例えばコロナウィルスについて思考し、地球環境の危機的な状況についてエッセイを書き継ぐ。
 ただし日記体そのものに興味があったわけではない。そこにある日時がほぼ「現在」そのものであったこと、そして目を落とす限りそこに展開する考えのひとつひとつがゴールから逆算されておらず、その日その場のぎりぎりから少しずつ誠実に先へ進もうとしていたことが、同じようにコロナ禍の中、地球環境破壊の中にあってどちらへ向かうべきかの一歩の方向さえ判然としない自分の糧になったのだと思う。
 したがって時には途中で読むのをやめ、まるで別な本に手を伸ばすことにもなった。著者の思考の向こうが自分にとって分岐していったからだ。ということでどこまでが実際の著者の文であったか、時には体験さえも私の中で自他なく溶け合っていたように覚えている。「考える」というのはそういう共同性のある行為なのだろう。
 で、とうとうそれが一冊にまとまった。つまりいったんのゴールが著者に見えたのであり、今度はそこから逆算してもいい読書の機会が与えられたことになる。これは読む私にとっても連載時とは位相の違う文の塊になってくる。今度は一度閉じられた文の世界内で沸騰のようなものが始まりもする。むろんそれが外界にもつながる。
 さて、著者は二〇二〇年春、日本でのコロナ急拡大の中で本書を書き始め、庭で植物を育てる様子を描きながら、例えばリチャード・パワーズ『オーバーストーリー』を紹介する。地球温暖化のさなかで未来を変えようとする者たちの話。私もこのパワーズの、真正面から地球環境の危機を訴える姿に驚き、心動かされた一人だ。
 私自身その少し前だったか、カルティエ現代美術財団がパリに持つ美術館での「植物展」的な催しに足を延ばしていて、反響のすさまじさに会期が延長されていたことにヨーロッパの環境への視線がそれまでになく超シリアスなのを理解したし、何より関連図書コーナーの巨大さと、最もレジに近いイチオシの場所に『オーバーストーリー』が積まれていたことにある種のショックを改めて覚えた。私たちは崖っぷちにいるのだという地球の共通認識の強さに。
 一方著者はパワーズの小説やプランターの植物の生長ぶりから、人間が「自分たちの地位を引き下げていい」と書く。「人間でないものたちと同じ地平に降り立つところから、新しい存在の喜びを見つけ出していく」と。ちなみに私が今やっているダブバンドでのリーディングの中に『直して次に渡す』という曲(サブスクで検索!)があり、そこでは田中正造の「人ハ万物中ニ生育せるものなり。人類のみとおもふハ過りなり……人ハ万事の霊でなくてもよろし。万物の奴隷でもよし」という明治四十四年の言葉が読まれている。我々の環境問題は、こうして過去とも直につながっている。そのいわば太い水脈の存在に、私は著者を通しても励ましを得る。
 また、著者は自分を含む人類を一方的に責めない。これは子供と共に暮らす毎日の奥底から思考が根を生やしているからで、ただ責めればその負い目もツケも次世代が背負うことになるだけだからだ。私も授業参観で環境問題を扱っている子供たちを後ろから見て、あんなに日々自分たちを責めなければならない世代はあらかじめ不条理だと思ったし、それしか学ばせない教育に大きな疑問を持ったものだ。
 そこに著者は別の考えを導入する。それは「協生農法」の舩橋真俊氏との出会いから自然に演繹されるのだが、不耕起(耕さない)であり、無農薬であり、多種を密生させることで「人間がかかわるほど生物が多様になる農業」の実現が可能だという提案である。それは人間がいてもいいという、今の子供たちが無意識に学んでいることとは真逆のビジョンだ。環境問題の解決は通常やはり、人類が滅びることだから。
 むろん人が「万事の霊」でなくなることがその条件になる。自分たちが一方的に環境問題を「解決」する主人公のような立場から降り、著者の例によれば「ダンスを踊るパートナー」の膝の痛みに「寄り添う」こと。そうであってこそ、私たちがいてもいい地球、いるといい地球のことを考えることが出来る。これは重大な態度変更だ。
 というわけで、当然この環境問題への思考はコロナなどのウィルスを我々人類がどう扱っていくか、どう共生するかという喫緊の課題にも深く対応している。と同時にこの書が子供たちへの教育にも関わっていることを思えば、つまりこれはジャン=ジャック・ルソー『エミール』の現代版なのだとわかってくる。
 思考を小説のように、エッセイのように語っていくこと。決して出来上がった論文のような述べられ方をしていない本書は、つまり十八世紀ヨーロッパの創作の基礎にあった自由な構えそのままを企図されているのかもしれず、ではルソーの考えた人民総体の持つ「一般意志」、それが今日の社会でどうあるべきかといった課題にまでひょっとすると地底での根茎が伸びていかねないが、ただそれがまるで消費者のビッグデータのように扱われていないことだけは確実で、むしろ著者は他者の意思に耳を傾けあうことの中でそれを醸成すべきだと考えているのではないか。
 そして他者とは人間に限らない。植物も動物もウィルスも鉱物もだ。能でよく使う言葉であらわせば「草木国土悉皆成仏」。