水たまりで息をする

水たまりで息をする

著者:高瀬隼子

第165回芥川賞候補作!

夫が風呂に入らなくなった。
何も起こらないはずだった二人の生活が、静かに変わっていく。

ISBN:978-4-08-744646-3

定価:594円(10%消費税)

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内容紹介
ある⽇、夫が⾵呂に⼊らなくなったことに気づいた⾐津実(いつみ)。夫は⽔が臭くて体につくと痒くなると⾔い、⼊浴を拒み続ける。彼⼥はペットボトルの⽔で体をすすぐように命じるが、そのうち夫は⾬が降ると外に出て濡れて帰ってくるように。そんなとき、夫の体臭が職場で話題になっていると義⺟から聞かされ、「夫婦の問題」だと責められる。夫は退職し、これを機に⼆⼈は、夫がこのところ川を求めて⾜繁く通っていた彼⼥の郷⾥に移住する。そして川で⽔浴びをするのが夫の⽇課となった。豪⾬の⽇、河川増⽔の警報を聞いた⾐津実は、夫の姿を探すが――。

【書評】平準化された世界の中で

中村佑子

 真剣に人を愛するとはどういうことなのか。本書は、一組の夫婦の軌跡をゆっくりと鷹揚に描く。そのさまはとても淡々としていて、そこに烈しさや内なる熱のようなものは感じられない。でもだからこそ、ふだん使わない「愛する」という言葉、この大上段な言葉をあえて使ってみたくなった。
 結婚して何年か経てば、夫婦の間での最初の感情の高ぶりは消え去り、相手の知っている面にばかり固執するようになる。まだほんとうは知らないことばかりなのに。いや、未知の部分があったとしても毎日顔を合わせ、生活のルーティンが岩盤のように硬くなっていく日々のなかで、知っていると錯覚するようになる。まだ知らないその人を、知ることのできる機会やアクションが減っていく。本書は「お風呂に入らない」という小さなきっかけから、夫の知らない一面を知ることになる。
「お風呂に入らない」。最初は小さな日常の一コマだと思っていた。しかし数週間、数ヶ月経つにつれ、臭いはきつくなり、肌は硬化し髪は束になり、些細な事態は、我々の日常に裂け目を与える大きな異物となる。理由は夫が話さないので推し測るしかないのだが、お風呂が嫌というよりは、水道水が我慢ならないらしい。そこで雨をシャワー代わりにしたり、妻がミネラルウォーターで体を流してあげたりする。
 ある日夫がスーツとシャツを濡らして帰ってきたことがあった。飲み会で、会社の後輩にコップの水をかけられたという。夫は一言、「カルキくさい」と言ったが、きっとそこからなのだ、水を嫌がるようになったのは。妻は、夫が「なめられている」のだと推測する。近しい人が、所属する世界から軽んじられていると知るのはとてもつらいものだ。
 夫はいま、その臭いのせいで満員電車でも避けられているだろう。営業職に就いているので、職場でも忌避されているだろう。夫自身も傷ついているはずだと、妻は彼の立場に立って考える。こうした事態に陥ったとき、自分が被る迷惑を先に主張する人は多いが、妻がそうではないことに安堵する。彼女はむしろ、人が弱さや逸脱をはらむことが許されない、東京という都市への違和感を想う。
「東京の人たちは、忘れ去る技術に長けているから、こんな風に目の前から去って行った物事を咀嚼し続けたりしない。」
 この国の冷厳を集めて固めたような首都・東京では、多少臭う男が目の前に来たとしても、次の瞬間には多くの人がその存在を忘れ、自分の時間の中に埋没していくだろう。そうして誰も他人に関心を寄せず、干渉することもなく、傷ついた人は傷ついたまま放置される。「どこにもつながっていないどん詰まりのような場所」と作者はいう。
 いまこの都市は、人を、生を、損なう空気に満たされているのではないか。そうして、この平準化された世界に居場所のなさを抱える者を、黙って排除している。夫の変化によって、妻が長年抱えていた世界への違和感が表出してゆく様を、共感をもって読んだ。 
 一方、夫の母も息子の変化を心配し、精神科受診を薦めるが、妻は義母からの連絡も平然と無視するようになる。今の段階で精神科に連れて行くことは、投げ出すことではないのか? まだ「なぜお風呂に入らないの?」とさえ、本人に聞いていないというのに。妻は臭いのキツくなる夫を、淡々と受け入れてゆく。
 かつて妻は、この義母に「おままごとみたいな」夫婦の生活と言われたことがある。夕飯を作らず、仕事帰りに好きな弁当などを買って自由に食べる二人を見て、義母はそう言ったのだ。その言葉を思い出して妻はこう思う。
「もう絶対に嫌だ。この世にままごとみたいな生活がひとつでもあると思っているような人と話をするのは。生きていくのが大変じゃない人なんて一人だっていないと、気付いていない人と関わるのは。」
 誰しも、その人特有の苦しさと切実さを抱えている。そこに目を向けない義母の態度は、他人の痛みを自分のこととして引き受けず、都合の良いように切り離して痛みを忘れてしまいたいという、この都市、つまりこの社会の欲望とイコールに見える。
 そうして二人は、ある場所に活路を見出す。夫が人目を気にせず水道水ではない水で水浴びができる場所。この場所にいるあいだ、彼は笑うことができている。だったらそれでいいじゃないか。ここからの二人の決断はとても早い。そのことにも勇気づけられる。職を辞め、東京のマンションを引き払い、新しい場所に引っ越して、妻はそこで職も得た。その間、夫はしょっちゅう水浴びをしている。もしかしたら他人には「狂気」と映る生活。しかし押し付けられた正しさではなく、それが二人の選び取った正しさなら、誰がそれを狂気と切り捨てられるのか。それぞれの感情がどう動いているのか見えにくいともいえる本作の中で、妻の夫への愛情がにじみ出るように感じられる一文に出会った部分があった。
「許したくてしんどい。夫が弱いことを許したい。夫が狂うことを許したい。だけど一人にしないでほしい。」
 妻は夫が狂うことに戸惑っているのではなく、彼が自分の知らない感情や感覚のなかに閉じこもり、自分を置いて行ってしまうことに怯えているのかもしれない。だから、夫に「なぜお風呂に入らないの?」と問い、精神科に連れて行くことは、彼を他者化するようでできなかった。ただ淡々と、臭う夫を受け入れ、彼が他人に忌避されていることに共に傷ついてきた。
 この二人は、結婚という選択を積極的に選んだのではなく、そのときに「結婚した方がいいから結婚をした」のだと語られる。消去していった先にほのかに残る、離れがたさ。でも、その残滓にこそ、それを愛と呼んでもさしつかえない感情が眠っているのではないか。積極的に求め、摑んで人を愛するのではなく、その人の痛みが自分の痛みと同化してしまうくらい一緒にいて、許しあう関係。それを愛と呼んでいいのだと、一方的な正しさの規範を強要するような世界の中で、私も問い返したくなる、そんな小説だった。