自分で名付ける

自分で名付ける

著者:松田青子

「母性」なんか知るか。
「結婚」「自然分娩」「母乳」などなど、「違和感」を吹き飛ばす、史上もっとも風通しのいい育児エッセイ!

ISBN:978-4-08-771753-2

定価:1,760円(10%消費税)

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内容紹介
結婚制度の不自由さ、無痛分娩のありがたみ、ゾンビと化した産後、妊娠線というタトゥー、ワンオペ育児の恐怖、ベビーカーに対する風当たりの強さ……。
子育て中に絶え間なく押しよせる無数の「うわーっ」を一つずつ掬いあげて言葉にする、この時代の新バイブル!

【目次】
1章 「妊婦」になる
2章 「無痛分娩でお願いします」
3章 「つわり」というわけのわからないもの
4章 「理想の母親像」とゾンビたち
5章 「妊娠線」は妊娠中にいれたタトゥー
6章 「母乳」、「液体ミルク」、「マザーズバッグ」
7章 「ワンオペ」がこわい
8章 「うるさくないね、かわいいね」
9章 「ベビーカーどうですかねえ」
10章 「名前」を付ける
11章 「電車」と「料理」、どっちも好き
12章 「保護する者でございます」
松田青子『自分で名付ける』刊行記念インタビュー

【書評】幻想を叩き壊して、私が名付けるという意欲

松尾亜紀子

 松田青子は、デビューから一貫して、自分が感じた社会への違和感ひとつひとつを凝視し、描いてきた作家だ。見逃されなかった違和感の数々は、小説であれば、怪談や古典に登場する抑圧され搾取されてきた女性たちが、ご機嫌なおばちゃんとして語り直されたり、「おじさん」から見えなくなった近未来の少女たちがついに世界そのものを変革する物語になったりして、私たちの前に現れた。
 エッセイである本書には、はじめての妊娠がわかって母子健康手帳をもらいに行くあたりから、文中では「O」と呼ばれる子どもが二歳になるまでの、およそ三年間が記録されている。親となった女性へ凄まじく迷惑な「母性ファンタジー」を押し付けてくる社会にたいして、著者はますますカッと目を見開く。そして、あれ? とか、一体なんなんだ、とか言いながら、その違和感を納得のいくまで解体していく。
 まず著者は、結婚しないまま出産する。その理由は、自分の名字が変わるのもパートナーの名字を変えるのも嫌だし面倒だったから。「戸籍、というものの強い感じが苦手だ。強そうに、えらそうにしやがって」「制度のほうが、『普通』の枠を広げたらいいやないか、そっちの『普通』が狭いくせに、こっちにドヤ顔してくんなよ」との社会へのすごみっぷりは最高だ。そう、今の時代、書類上の夫婦や家族でなくても、基本的にはたいていのことは困らない。だけど、著者が病院で、出産時に万が一なにかあっても結婚していない相手には状況を伝えることができない、と告げられたのは、あーそれがあったね、と私まで少し凹んだ。病院は悪くないとはいえ、女が自分のままで生きようとすると、いちいち邪魔が入って抵抗する力を奪おうとするんだよなと。
 ともあれ、万が一のことにはならず、かなり長時間の壮絶な出産(無痛分娩一択!)を終えた著者が見たのは、出産直後でボロボロの女性たちが数時間ごとに授乳のために定まった部屋に向かう、ゾンビのような姿。これは私も体験したことがある。満身創痍なのに数時間ごとに強制的に起こされ、産んだばかりの股が痛くて歩くのがつらくノロノロ歩くしかない。自分もゾンビとなった著者は、出産直後のリアルな姿を書いて、「そのつどファンタジーを叩き壊していくしかない」と死んだ目で決意する。このエッセイは、私も含めた無数のゾンビの呻きをすくい上げているのだ。
 そして、育児パートが始まるのだが、やはり著者は子を産んだからといってすぐに「親」になれるはずがないんだと、世間の押し付けをひとまず疑ってかかる。最初から「ワンオペ」はどだい無理だとわかっているから、実母や子の父であるX氏と三人で育てることになって、結果子ひとりに大人三人、それくらいがちょうどいいと著者はしみじみ実感する。そもそも誰も一人きりで子を育てるべきじゃないと、私も心から思う。一緒に子育てするのは、別に家族である必要もない。実際にワンオペしか選択肢がない人の気持ちを考えろと言われたりするが、そうじゃない、社会が自己責任のもと母親に「名前のない」ケア労働を押し付けている現実がおかしいのだ。「私」を失くし「親」になれと強制してくる、その負担がどれだけ母親の心と体を蝕むか。
 だから、著者は子を産んだら母親が犠牲になるものだという前提も、当然信じない。タイトルの由来にもなっている十章「『名前』を付ける」では、旅先で入ったパン屋でお茶でもしようとしたらO氏がぐずったので著者は早々に店を出る。その際に店員からかけられた「お母さんのゆっくりする時間がなくなっちゃったね」ということばを後で反芻して、いやO氏に合わせても私の時間は消えていないと思い至る。母性がなにかはまったく知らんが、私は子と一緒に時間を過ごしたいのだと。個としての風通しのいい思いがここにある。
 他にも母乳、つわり、妊娠線、ベビーカー問題等々に向き合う著者の思考の流れが、全十二章かけて丁寧に綴られる。編集者の癖で数えたら、ひとつの章がだいたい一万字くらいあってのけぞった。「育児エッセイ」と分類される本のなかでは、ひとつのトピックに費やされている文字量が圧倒的に多いのではないか(断っておくが冗長という意味ではまったくない。いつまでも読みたい)。
 思い出したのが、最近読んだ美術批評家グリゼルダ・ポロックのインタビューだ。その中でポロックは、「フェミニズムとは、男根中心主義や家父長制的な文化が差し出すものの向こうにある世界と自分自身について、もっと知りたいという意欲です」と語っている(『美術手帖』二〇二一年八月号)。本書の一章の分量は、著者が男社会の幻想を一個ずつ潰しながら、妊娠し、出産した自分の経験、子を育てる自分の気持ちをよりきちんともっと知りたいという意欲、フェミニズムそのものなのだ。その果てに、著者が自分をなんと名付けたか、どうか読んで欲しい。
 私がとても好きなエピソードのひとつに、出産で入院したときのタオルの話がある。出産直後からしばらく続く「悪露」と呼ばれる出血(ひどいネーミングだからそろそろ変えてほしい)のために、著者は自宅から古いマリメッコのタオルを持ち込む。助産師さんがそれを見て、「汚れてしまうので病院のを使いますね」と大切にしてくれる。大切にしてもらったから、そのボロボロの古いタオルを著者は今でも大切に使っているという。
 大切にされた記憶は連鎖する。「育児中の女性たちの経験や気持ちは、育児本や育児エッセイ含めて、当事者たちの間で止まりがちで、関係のない人は一切知らなくてもいいことに分類されているように感じる」と著者が書いているとおり、この無関心はびこる社会で取るに足りないとされ、多くの語られなかった経験、知らされなかった女性の気持ちは、ものすごくたくさんあるだろう。松田さんがこんなに自分の大切な話をしてくれたから、私も私の大切な何かを自分で名付けていいのだと、次は私もと語れる女性が続くはずだ。