【書評】「人間」に賭け直す言葉を求めて
杉田俊介
「あとがき」によれば本書は、「当初、ドストエフスキー箴言集として構想され」ていたが、早くも第一章から「そのアイデアは挫折」 してしまったという。その理由の一つとして連載が「コロナ禍という異常事態、異常な心理状態のなか」で書き継がれたために「それぞれの時点で、アクチュアリティをはらむと思われる社会現象に目を配らざるをえなかった」点が挙げられている。しかしそれだけではなさそうだ。
この不如意の「逸脱」は、ドストエフスキーのテクストに対峙することそれ自体から強いられる不可避の「逸脱」でもあっただろう。またどんなに書き続けても「書ききった、引用の限りをつくしたという思いはなく、ドストエフスキーの作品のページを広げるたびに、焦りにも似た後悔に急きたてられ」た、率直にそうも吐露されている。しかしドストエフスキーの言葉を引用し、解釈し、注釈し続けるということ、「これは終わりなき作業なのだ」――そうしたある種の「慰め」、というよりむしろ「勇気」の必要が最終的に確認され、亀山の中で腑に落とされたという。
先を見通せない時代の流動性の渦中において形而上学的な問いに向き合うこと、そのためにテクストが当初のプランから「逸脱」し、作者にさえ統御しえないものに変貌してしまうこと、それはドストエフスキー自身の書きざまであり、その「方法」とも言える。本書ではドストエフスキーの言葉に向き合う亀山自身の書きざまがそうした「方法」を半ば無意識に反復し、変奏してしまっている。
サディズム、罪、疚しさ、疫病、道化、分身、ニヒリズム、父殺しなど、章ごとに多彩な主題を扱った本書の全体について、この場でことこまかに紹介するのは難しい。以下では、私個人が特に関心をもった数個の主題に絞って、感想を記す。
周知のようにドストエフスキーは金の問題に苦しんだ。債権者に追われ、家族や親族からの金の無心に対応し、借金返済のために長大な小説を書き続けた。それは彼の個人的事情に限った話ではない。クリミア戦争(一八五三~五六)の敗北後にロシアは急速な投機熱に見舞われ、また新皇帝アレクサンドル二世の登場(一八五五)のもと異様な多幸感に包まれ、不動産や債券の乱舞の中で、人々は天国と地獄を同時に味わったという。
こうした中でドストエフスキーもまた一八五九年頃から賭博に興味を持ちはじめ、『罪と罰』や『白痴』の執筆時期を含む一〇年程の間、断続的にルーレットで散財しては借金し、小説を書き、また賭博に熱狂する、という生活の乱高下を繰り返した。
ドストエフスキーはどうやら賭博という行為の中に、残酷で気紛れな神に対する人間の信仰の核心を見ていたようだ。だがそれはパスカル的な合理的賭けとは大きく異なる。たとえば決闘という行為、あるいは死刑を待つ瞬間すらも、彼にとってはある種の神学的ギャンブルだったのではないか。重要なのはそれが『カラマーゾフの兄弟』のイワンを苦しめたあの問い――なぜ罪のない人間が苦しみ、子どもらが虐待され凌辱されるのか、そして別の人間はたまたま苦しまずにすむのか――とも地続きであることだ。
金が「新しい神」 になる。これはただの比喩ではなかった。カジノには現実的な階級制度を無効化して勝者と敗者を再決定するラディカルな革命性があり、「運命論的な世界でありつつ、カーニバル的な空間をも体現する」。亀山は述べる。「では、現実に、「キリストの楽園」を約束してくれるものとは何だったのか。それこそがルーレットではなかったのか。勝ちを得ようが敗れようが、ルーレットが啓示するものは、運命の平等性であり、それを前にしての個人の無力と無意味であ」 る。
投機/賭博/決闘/死刑などの瞬間には、人間の生のナンセンスな偶然性が生々しく露呈するが――そこでは深遠な人生の問いの真面目さが祝祭性、享楽性、破廉恥さの中へと解き放たれていく――、それは同時に、神と金の前に無力な人間(奴隷)たちの形而上学的反抗=「父殺し」の現場でもあるだろう。亀山はそうした賭博的=信仰的な逆説性に目を凝らしていく。
重要なのは亀山が人間愛の立場から人々の福祉や幸福を求める「人間尊重主義」と、矛盾と分裂を孕む人間の存在そのものを全肯定する「人間主義」(人間第一主義) とを区別していることだろう。後者においては投機熱や賭博的破滅性、サディズムや嗜虐性なども「人間」的な欲望として肯定されうるのだ。
こうした「人間」たちの存在は、ロシアの民衆的な大地(土)に根差したものだ、とドストエフスキーは考えていたようだ。ただしその場合の民衆とは、無垢な農民のような人々に限らなかった。放蕩者や賭博者たち、あるいは残虐な犯罪に手を染めても何も感じない監獄の犯罪者たち、彼らこそがまさに民衆そのものなのである。
そうした眼で現代日本を見渡すなら、ネットで匿名で暴れたり、無茶苦茶な権力に自発的に隷従する人々、彼らもまた民衆と言えるのだろうか。たんなる「人間尊重主義」によっては啓蒙も教育もされえない民衆。彼らの中に大地と土に根差した「人間」を見るとは、現代の神と革命の根源を見出すとは、どういうことか。本書を読みながら、問いはそんな方向へも伸びていく。
自らの心の問いを重ねる限りで、読者はルーレットの好きな目に賭けるように、本書のページを自由に開くことができる。数々の引用中、今回私が最も心を揺すぶられたのは、『カラマーゾフの兄弟』の次の言葉だった。「兄弟たちよ、人々の罪を恐れてはいけない。罪ある人間を愛しなさい。なぜならそれは神の愛の似姿であり、この地上における愛の究極だからだ。神が創られたすべてのものを愛しなさい。その全体も、一粒一粒の砂も。葉の一枚一枚、神の光の一筋一筋を愛しなさい。動物を愛しなさい。植物を愛しなさい。あらゆるものを愛すれば、それらのものの中に、神の秘密を知ることができるだろう」。