【書評】マジョリティ男性である自分は「我は、おじさん」と宣言できるのか?
清田隆之
私は著者と同じ1980年の生まれで、奇しくもこの原稿の締め切り当日に41歳の誕生日を迎えた。すぐに痛む腰、染めなければ白髪だらけの頭。気づけば仕事相手はほとんど年下になり、今年から大学で自分の半分にも満たない年齢の学生たちにモノを教えている。紛うかたなき中年であり、責任ある立場になっていることも間違いない。そんな自分は、著者と同じ強度で「我は、おじさん」と言えるだろうか。
本書は文筆家の岡田育が古今東西の様々な作品をひもときながら、「おばさん」という言葉にこびりつく偏見や固定観念を引きはがしていくエッセイ集だ。本来であれば単に「中年の女性」を表すフラットな言葉であるはずなのに、呼称として用いることも当事者として自称することも忌避されてしまうのはなぜなのか? そんな問いを元に、『82年生まれ、キム・ジヨン』に出てくる通りすがりの女性に、『更級日記』の作者に大量の書物を贈った親戚の女性に、『違国日記』で両親と死別した姪を引き取った叔母に、『マッドマックス 怒りのデス・ロード』の〝鉄馬の女たち〟に、兼高かおるに、黒柳徹子に、後藤久美子に、阿佐ヶ谷姉妹に、〝学研のおばちゃん〟に、一九世紀末の英国におけるガヴァネス(住み込みの女家庭教師)に──本当に多種多様な女性たちにスポットを当て、その生き様や境遇を丹念に描き出しながら「おばさん」に宿るニュアンスを書き換えていく。緻密にロジックを積み上げていく学術論文のようでありながら、大衆に向けた刺激的なアジテーションのようでもあり、とにかく熱量が凄まじい。それは著者自身が中年の入口に差しかかった者として、覚悟を決めるために書きつづったテキストだからではないか。
〈おばさんとは、女として女のまま、みずからの加齢を引き受けた者。護られる側から護る側へ、与えられる側から与える側へと、一歩階段を上がった者。世代を超えて縦方向へ脈々と受け継がれるシスターフッド(女性同士の連帯)の中間地点に位置して、悪しき過去を断ち切り、次世代へ未来を紡ぐ力を授ける者である。カッコよくて頼もしくて、社会に必要とされ、みんなから憧れられる存在であっても全然おかしくない。それがどうしてこんなにネガティブな響きを持つようになってしまったのだろうか。少なくない女性が「呼ばれたくない」「なりたくない」と怯えるほどに〉
モノを言えば疎ましがられてしまう。年齢を重ねただけなのに哀れな存在と見なされてしまう。子を産んでいないだけで生産性がないと言われてしまう。自由に生きているだけで怪しまれ、普通に働きたいだけなのに低く扱われ、物語で悪役や嫌われ役を押しつけられ、かと思えば成熟した女性として精神的なケアや「筆おろし」まで期待されたりもする。そんな現状に著者は中指を立て、おばさんは「非・おかあさん」として〈姪に鋭く光るナイフを手渡して親子の絆を斜めに斬りつける〉こともできるし、自由で生き生きとした姿を見せることでエイジズムやルッキズムの呪いを解くこともできる。恋をしたっていいし、お金だって稼げるし、子育てしながら一国の首相を務めることだってできる。ああ、ここにいたんですね、そんなところにもいたんですね──と、様々な作品で出会ってきた素敵なおばさんたちを改めて訪ね歩きながら、連綿と続くシスターフッドから受けてきた恩恵を再確認し、善きものは残し、悪しきものは断ちながら「我は、おばさん」とひとつずつ覚悟を固めていく。
能力や経験値が帯びてしまう権力性や加害性をも十分に意識しながらバトンをつないでいこうとするその姿勢に、同世代としていたく感銘を受けた。正直、ラストで涙した。俺もこんな大人を目指したいと思った。しかし同時に、吞気に感動してていいのだろうか……という問い返しもあった。悲しいかな、ここで描かれているシスターフッドに自分は含まれていない。それどころか、シスジェンダー(割り当てられた性別と性自認が一致)かつヘテロセクシュアル(異性愛者)として生きてきた私は〝マジョリティ男性〟の一員で、「おばさん」という言葉に偏見やレッテルを押しつけてきた男性優位社会から恩恵を受けてきた部分も多分にある。いくら著者にならって「我は、おじさん」と宣言しようとしたところで、それはジェンダーの非対称性を無視した文化の盗用にしかならない。では、どうすればいいか。
本書では狭いイメージに押し込められていた「おばさん」像の拡張が試みられた。これを読みながら思ったのは、自分は「おじさん」に正反対のものを感じていたかもしれない、ということだ。著者も指摘しているが、昔からオルタナティブなおじさん像は多様だった。独身のまま自由に生きているおじさん、定職に就かずふらふらしているおじさん。無責任なことばっかり言ってるおじさんもいたし、〝永遠の少年〟としてみなから好かれるおじさんもいた。知り合いにもメディアの中にもロールモデルとなる中年男性はたくさんいて、実際に憧れなんかも抱いていた。しかし大人になり、とりわけジェンダーの問題に興味を持つようになってからは、多様に見えていたおじさん像がどんどん画一的に感じられるようになった。偉いおじさんも、偉くないおじさんも、優しいおじさんも、反権力のおじさんも、ひと皮むけばホモソーシャル的で、女性蔑視なところがあり、家事や育児をほとんどしない。職種も地位も思想信条もバラバラなはずなのに、判で押したような言動を見せるのはなぜなのか……そんな疑問を持つようになった。もしも本書のようなアプローチで「おじさん」像の書き換えを試みるならば、おそらく、物語の中に描かれている姿ではなく、描かれていない姿や語られていない部分にこそ目を向けていかないと成立しないはずだ。加えて自分を凝視する。それこそが「我は、おじさん」に向けた第一歩になるのではないかと痛感させられる読書体験だった。