泡

著者:松家仁之

学校に行けなくなった薫が、家からも離れて見知らぬ土地で過ごす夏。
そこには、言い知れぬ「過去」を持つ大人たちがいた。
思春期のままならない心と体を鮮やかに描きだす、『光の犬』から3年ぶりの新作にして、最初で最後の青春小説。

ISBN:978-4-08-771736-5

定価:1,650円(10%消費税)

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内容紹介
自分の居場所はどこにもない。でもひとりでは生きていけない。

無意識に大量の空気を呑み込むためおならが頻繁に出てしまう呑気症(どんきしょう)に悩む男子高生の薫(かおる)。
いつおならが出てしまうかと怯えるだけでなく、教師の言うことに従って集団行動を強いられる高校生活にも苦痛を覚えている。
二年に上がってまもなく、ついに学校に行けなくなり、薫は夏のあいだ、大叔父・兼定(かねさだ)のもとで過ごすことに。
兼定は親族の中でも異色の存在で、シベリアからの復員後、知り合いもいない土地にひとり移り住み、岡田という青年を雇いつつジャズ喫茶を経営していた。
薫は店を手伝ううちに、一日一日を生きていくための何かを摑みはじめる──。

思春期のままならない心と体を鮮やかに描きだす、『光の犬』から3年ぶりの新作にして、珠玉の青春小説。
松家仁之『泡』刊行記念インタビュー

【書評】ことばを介さぬ救済と連帯

江南亜美子

 ときは一九七〇年代半ば、太平洋沿岸の温泉と海水浴の町で、世代の異なる三人の男がであってしまう。ままならない男と、黙っている男と、謎めいた男の三人だ。ままならない男は、薫といって高校二年生。精神の不安定から東京の学校に通えなくなり、堅物の両親に頼みこんで、夏の二か月間だけ大叔父の兼定が住むここ砂里浜へと、いわば転地療養にやってきた。兼定は、黙っている男だ。砂里浜でジャズ喫茶「オーブフ」を営み、かつては保険の外交員として一、二を争う成約数を誇っていたほどだから、ただ無口なわけではない。表面的には冗談好きの社交的な人物だが、口には出さない過去の記憶が腹の奥底に淀みを作っている。
 兼定が、逡巡なしに薫の面倒を見ることを了承したのは、五年前にもある男を受け入れた経験があったからかもしれない。血縁関係のない、岡田という謎めいた男だ。米軍放出のダッフルバッグに髪も髭もぼさぼさのなりで不意に店に現われ、そのまま店にいついてしまったが、かもしだす〈質問を受けつけないバリア〉で、他人の好奇心の介入を許さない。しかし兼定は、この青年がはなつ麝香のようなかすかな香りに反応し、親身になって身元をひきうけたのだった。
 物語は、彼らの抱える問題や関係性をじわじわと明かしながら、ゆっくりと進む。薫が風呂に入るシーンで幕を開けるが、〈今日一日吞みこんだ空気はよろこびいさんで解き放たれてゆく〉との不思議な描写に、読者の目はとまるだろう。のちに吞気症と名が明かされる、おなかに過剰にガスがたまり、放出(ようはおならだ)の必要が迫られるこの症状は、薫のままならなさのひとつでもある。
 本人の深刻さとはうらはらに、どこか滑稽さも感じさせるこの病は、ため込むことと吐き出すことの象徴としてある。薫は私立男子校の制服や、授業でつけさせられる剣道の小手の臭いに嫌悪感を抱いている。身体の境界を明確にするそれらは、精神的なふさがりにもなる。七〇年代ではいまほど柔軟でなかったジェンダーロールの押しつけや、教員である両親の旧弊な価値観に反発心を抱きながら、うまく発散できないのが薫なのだ。そこにひとつの通気口がひらく。親族からも異端とされているらしい大叔父の存在だ。
 兼定は、シベリア抑留の過去を持つ。収容所では、敗戦後というのに軍人時代の階級がまだ幅を利かせ、暴力と死が横溢していた。国に見捨てられ、ようよう帰還しても、今度は親戚に「アカ」ではないかと疑われる。血縁も地縁もきり、権威の囚人たる鎖から身を躱すように、この関西圏の温泉地に逃げてきた兼定は、その重く苦しい過去を薫に縷々聞かせることもなく黙ったまま、困難にもがく薫を受け止めるのだ。世代を超え、義務のあるなしに関係なく差し伸べられた救済の手。薫はその手にすがるように、この地で料理を覚え、海と太陽に同化し、女の子とも知り合って、文字通り成長するのである。
〈「オーブフ」にいて店を手伝っていれば、自分らしいおおきさでそこにいられる。音楽が流れ、それを聴いている耳が自分だ。昼も夜も大叔父や岡田の料理を食べている。(中略)口からこちら側が自分だ。大叔父、岡田とのあいだに最小限の会話があって、最小限のことばで答える。返すことばが自分だ。自分の声も〉
 それぞれひとには固有の時系列があり、時間は流れる。体験の軽重では、そのひとの痛みまでははかれない。兼定の、シベリア抑留とその後の兄弟からの仕打ちという痛手を癒してくれたジャズという音楽が、その明るいボーカルやドラムの軽快なリズムや身体を揺さぶるスウィングが、こんどは薫のこわばりに効いていく。ことばでの説明以上に、ふたりを結びつけるのだ。
 いっぽう、いまやジャズ喫茶の切り盛りに欠かせない存在となった岡田も、兼定と音楽に救済された身である。七〇年代に青春期をすごした団塊の世代として、学生運動の苛烈な体験の気配だけをただよわせながら自らは何も語らぬ彼もまた、東京からの疎開者だ。兼定は岡田が店で働きだした当初、〈背後から誰かに囁かれたように(中略)岡田は人を殺していない、という奇妙な断定〉を得る。殺していない、とは物騒ながら、死と近接した経験のある者ならではの直感で、岡田にも死の気配を感じたのだろう。ことばにはされぬまま、引き揚げ体験と学生運動が、ここでつながっていく。
 思い返せば、松家仁之という作家はこれまでも、ひとが生きて死んでいくその当たり前の営みのなかにある機微を、至近からの視点で、あるいは巨視的な神の視点で、丁寧に掬いとる小説をいくつも発表してきた。たとえば前作の『光の犬』は、北海道東部のちいさな町に住んだ、ある一族三代の長い時間を内包する物語を、自在に視点と時代を行き来しながら厚めのボリュームで描き出した歴史大河だが、ひとが生きてきたという単純な事実を、たしかな手触りをもって読者に感じさせる作品であった。
 私たち読者は本作で、三人の世代のちがう男たちが夏の二か月間をともに過ごした、その時間の経過と出来事の感触を、いわば追体験する。関係が生まれ、かたちを変えていく。水の流れにも似て、二度とくりかえされることのない二か月が、彼らの過去とすこしの未来を巻き込みながら、圧倒的な「現在」として立ち上がるさまに、ひとが一回性の生を生きるとはなにかという本質的な問いを、見出すのである。
〈砂浜に海水が吸いこまれると、小さな泡がつぷつぷとつぶれながら消えてゆく。その小さな音がする。自分もこの泡のように、いつか消えてゆく――それまでにできることはなんだろう〉
 泡のはかなさ。生命のきらめき。この薫の思いは、おそらく兼定のそれと同じであり、また読者の心象にも余韻をともなって広がっていく。小説を読むことのプリミティヴなよろこびを感じさせてくれる作品だ。