内容紹介
\\ 熱い応援、続々! //
愛さずにはいられない本能を、全肯定してくれた。世界が光に見えた。 ――安藤桃子さん(映画監督)
子を育てることであるよりも、いのちと聖なるものをはぐくむこと、それが「マザリング」だ。
このちからがこれまでも、人間たちを危機の時代から救い出してきた。――若松英輔さん(批評家・随筆家)
弱さの究極へと手を差し延べて、その内側へと踏み入っていくような果敢な営為の先に、軋みをあげるこの世界を癒す鍵がきっとある。――谷崎由依さん(作家・翻訳家)
「母を考えることは、自然と人間の関係を捉え直すことでもある」(本文より)。
産後うつに陥った人、流産を経験した人、産まないと決めた人、養子を迎えた人……。
記録されてこなかった妊娠出産期の経験をすくいあげ、「母」の定義を解体し、いまを生きる人々の声から、ケアをめぐる普遍的思考を紡ぐ。
【書評】窓を開く、母を開く
斎藤真理子
何てたくさんの課題に挑戦している本なのだろう。こんなに密度の濃い、あるいは濃度の高い書きものを読んだことが、近ごろあっただろうか。その密度あるいは濃度が、読んだ後ずっと残って離れない。
第一章は、出産から間もないころの記述から始まる。母親にとって、どこまでが自分でどこからが子どもなのか判然としない不思議な時期だ。それを中村さんは「子どもと一緒に雨を見れば、雨粒はいっせいに語り出し、朝を迎えれば、一日は新しく太陽のもとで生まれたばかりのように感じられた」と書いている。ここを読んだとき、約三十年前、子どもを産んだ後に私の周りにも確かにあった光が一瞬蘇った。
だが、もう少し時が経ったころ中村さんは全く別の経験をする。泣き止まない子どもを抱いて電車を途中下車し、井の頭公園駅のホームのベンチで、授乳ケープをしてお乳をあげていたときのことだ。何千年と変わっていない、プリミティブな授乳のしぐさ。そのとき中村さんは奇妙な感覚にとらわれたという。「家のなかでは自足していた時間が行き場を失い、娘と私がいま、この社会のなかでどこにいるのかわからない」……。
部屋から一歩外へ出たら言葉を失う。いや、言葉への信頼が解体され、新しい秩序を求めているのに、それが見つからないのだ。妊娠・出産の側から文明社会を見渡したとき、「子どもを身ごもり育てる女性たちが直面する存在論的な不安」を表した言葉になかなか出会えない。切実にそう感じた中村さんは、人々に会いに行った。それを集めたのがこの本である。
人に会うのは窓を開けることだ。「部屋の窓をあけて風を入れ、あなたの声にならない声を、この空に向かって放ちたい」と中村さんも書いている。それはとても大事なことだ、けれども難しいことだ。だって、子どもを抱いていたら腕はふさがっているのだから。窓を開けるためには子どもをいっときどこかにおろすか、ほかの人に託すか、腕に大きな負担をかけるかしなければならない。けれども中村さんは、どうしてもそれが必要だったからそうしたのだ。
読み進みながら、何度も「そうそう」と思った。例えば、出産のとき自分が怪物になったような感じ。出産後に死への恐怖が消え、怪談話も怖くなくなったこと。そして、子どもが生まれる前後の奇妙な夢や、テレパシーじみた不思議なできごと。
子どもを産んだ人は多かれ少なかれ、似たようなことを体験しているだろう。私たちが知っている科学の、ほんのちょっと先で証明されそうなこと、でも今のところは「オカルトだね」と言われてしまいそうなこと。けれども多くの母親にとって、子を見つめる心情の奥には「それ」の記憶があり、辛い時期に支えてくれたりもする。
だがそれらが結局、「お母さんって不思議ね」「お母さんってすごいね」で終わってしまったら、何にもならないのだ。部屋にとじこめて「すごい」と言われているだけでは、母も子も救われない。この社会に今、足りていないものが何であるかを、赤ん坊たちは大きな泣き声で、母親たちは言葉を失うことで指し示しているのに。
「窓を開く」のは、母たちの言葉を集める作業にとどまらない。むしろ「「母」を主語として語る危険」をしっかりと意識しているからこそ、妊娠出産を経験していない人たちとの対話を大切にしている。
中村さんは次々に窓を、ドアを、開け放していく。少女時代にしか訪れない感覚について話してくれた人、子どもは持たないと決めている人、ケア労働に携わる人、養子を引き取った人、父親になる経験をした人。窓を開くことは母を開くことだ。母という言葉に閉じ込められていた、誰にでもあるはずの、性別を超えて他者の生命へ自分を傾ける力を開くことだ。
そして最後に開けたドアの中に、著者は自分自身の母を見出す。最もよく知っているはずの人でも、違うドアを開けて出会い直すことはできるのだと、この章を読んで知った。そのとき、その人やその人の傷までが違う光を浴び、違う顔を見せ、違う言葉を発してくれる。驚くべきことがそこで起こる。
読みながらずっと反芻していたもう一つの記憶がある。まだ三歳だった息子と一緒に、沖縄の那覇から東京に転居してきたときのことだ。引っ越し荷物が未着だったので、初日は渋谷に泊まった。子どもの手を引いて渋谷の街を歩き出したとき、この場所が赤ん坊や子どもの存在を前提として動いていないことを肌で感じて呆然としたのである。言葉の選び方がとても悪いけれども、あの感覚を再現するなら「お前たちは女子どものゲットーにいろ」と宣告されたような緊張感だった。那覇の雑踏では一度もそんなことはなかったのに。
そのあと私と息子はさまざまな人間関係に恵まれたが、二人ともそれぞれに、あのころに味わったショックに深いところでずっと傷ついていたのだと、でも、それを認めたら暮らしてこられなかったのだと、『マザリング』を読んで改めて気づいた。この本は記憶を鋤き返す本なのだ。だからそのあとに種も蒔けるだろう。
「「母」を社会的、政治的役割から解放してあげたとき、「母」とは非常にラジカルな概念であるのではないか。(中略)他者の痛みを感じとるセンシティビティになる。それが力や権力を脱臼させる。それをあえて、人間のなかの「母」と呼んでも良いだろう」。
中村さんは「母」をこのように定義し直す。子どもと暮らしていたとき中途半端にしか窓を開けることができなかった私には、後悔がたくさん残っている。だからもうしばらく中村さんの密度と濃度の中にいて学びたい。それが子どもたちの世代にとって絶対に重要なことだと信じるから。多くの課題に挑み、多くをつかみ取った、味わいつくしたい、かけがえのない本だ。