背高泡立草

背高泡立草

著者:古川真人

【第162回 芥川賞受賞作】草は刈らねばならない。そこに埋もれているのは、納屋だけではないから。記憶と歴史が結びついた、著者新境地。

ISBN:978-4-08-744496-4

定価:550円(10%消費税)

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【書評】土地が映し出す記憶

江南亜美子

 これまで、古川真人の小説を読むこととは、とりもなおさず長崎県の平戸地方とおぼしき島に長らく根を下ろしてきた「吉川家」一族の歴史をたどることに他ならなかった。デビュー作『縫わんばならん』から、『四時過ぎの船』、『ラッコの家』へとじっくり書き継がれてきた小説群には、どの登場人物の心の中にも入り込める語り手が設定され、吉川の家を構成する何世代にもわたる人々の現在と過去、意識と記憶が、障壁なく自在に展開されていく。
 たとえば『縫わんばならん』では、八四歳となり、痛む身体の厭わしさを乗り越えて商店を営む敬子の、眠りと覚醒の合間のまどろみには、認知症を患った兄嫁・佐恵子をさがしてかつて港を歩いた光景がよみがえり、つづいて敬子の妹の多津子は、視覚障害を自覚しはじめた自身の幼少期を思いかえすと同時に、いま夫の勲が死を迎えつつあることに対処する。佐恵子の通夜の日、孫の稔は祖母の死に対して、〈何か、悲しいって気持ちとは別の、何かがあるったい〉と想いをめぐらせもする。『四時過ぎの船』では、すでに正常な認知能力を失った佐恵子が、のび縮みする時間と意識の輪郭を懸命に追いながら、断片的な思念を吐露していく。
 このように、ただひとりの人物に固定することのない超越的な視点から、人物の相関や、とりとめなく流れる思念や、五感に感知される島のさまざまな情報が縷々、繊細に多層的に叙述されること――これが従来の古川作品の特徴にして、大きな美点としてある。またその語りには、一族の女たちに共通する、沈黙を嫌い、笑い声を撒き散らすようにしゃべる声音や、ゆたかなディテールを伴う土地の方言などが再現され、読者の耳をも楽しませてきた。
 本作『背高泡立草』でも、こうした手法は踏襲される。継続的な読者は、吉川の面々とふたたびみたび、出あいなおすだろう。ただしひとつ異なる点がある。それは、解かれていく意識の流れと行ないが、吉川の一族のものとは限らなくなったことだ。名前も与えられず、たんに「夫」や「少年」とよばれるこの人物たちは誰なのか。そして彼らのエピソードが示すものとは何なのか? 謎めいた仕掛けが、読者にあらたに用意される。
 物語の本筋となるのは、ここ二十年ばかり誰も使っていない吉川の家の納屋周辺の草刈りを目的に、一時的に島の外から親族が集う、その様子である。招集の号令を掛けたのは大村美穂。敬子の実の娘でありながら、子をなすことのなかった敬子の兄・智郎と佐恵子夫婦に養子縁組されて育ち、「古か家」と「新しい方の家」と呼ばれる二軒の実家をなにかと気にかけてきた。まだ身体は動くものの老いを実感する美穂は、実の兄と姉、自分の娘の奈美と、姉の娘の知香の助けを得ようとするが、そもそも奈美は仕事の休日を費やしてまで、わざわざ廃屋を手入れするのが納得できない。〈「あんまし草茫々やったら、みっともないじゃんね」/「別に良いやん、草が生えてたって。誰も使わんっちゃけん」〉。
 奈美の不平を、すぐに終わるからと、適当にいなした母の言葉を裏切るかのように、草刈りは難航する。繁茂した植物は光を求めて上へ上へ、納屋の半面を覆いつくさんばかりの強い生命力を見せているのだ。もはや住む者、使う者が不在でも、そこにたしかに建物は残存し、見捨てることならずと人の関与を要求する。しがらみなるものが象徴されたかのような草刈りというやっかいな作業と、島でひとり生活を続ける敬子と美穂らのやりとりが描かれる合間に、いくつか断片的に挟み込まれていくのが、この地に起きた過去の出来事である。
 かつてこの地で妻子を得ながらも、〈二度と外の世界も知らず年老いていくと考えると、どうにもあきらめきれ〉ないと、「外」への欲望をたぎらせた男は、ついには満州行きを決意する。妻は、知人の成功談が種となって夫の胸中に根を張ったのを察知し、不安におののきつつも、最後はともに大陸に渡ったのだった。あるいは江戸時代、捕鯨に従事していた青年は、ひょんなことから北方の島(択捉)と海を調査する一員に加わり、自分とは異なる民族、文化に相対しもする。
 吉川の一族をこの地にしばる元凶とみえていた家が、じつは、外に人を送り出す役割も担ったということ。島はたしかに外に開かれている。戦後すぐ、敬子の父親が家の主であった「古か家」の土間が、プサンに帰郷しようとしながら船が難破し海中に放り出された朝鮮人たちの一時的な避難場所となったという、またべつのエピソードもそれを示す。島は海に、海は世界へとつながる――そんな当たり前といえば当たり前の認識が、過去の逸話によって、いまたしかに光りだすのである。こうして物語は、吉川家のくびきから解かれ、一族の記憶にしかとは残らない遠い時間や、系図から外れた人物の断片をもまきこみながら、ぶわんとふくらんでいく。
 土地とは、その区画の名義人が誰かとは関係なく、ずっとそこにある。家が建てられ、大勢がぎゅうぎゅうに肩寄せあい住んだ時代も、人がひとり欠け、ふたり欠けして住人不在となった時代も、風は同じように吹きわたり、日差しはふりそそぎ、草木は繁茂するのだ。本作を読むうち、読者の胸にはふいに、人類がすべて死滅してしまったあとのこの土地のさまが想起されるのではないか。人の営みは途絶え、納屋らしき残骸を覆いつくすように、背高泡立草が地下茎をのばして繁茂し、ドクダミ、イタドリ、ノバラ、アキグミなどとともに、あたり一面に緑の濃淡を描き出すところを。
 それは本書の最終シーンからの連想でもある。土地に根差した一族の記憶を認知症の女性の脳内も含めて掘り起こし続け、連綿とつづってきた作品群のはてに、古川真人は、土地そのものに堆積した記憶を描出することに成功した。この宇宙的な広がりを見よ。過去三冊を踏まえての、本書への飛躍はひとつの達成にみえる。芥川賞受賞も納得の一冊だ。