【書評】聖性を鏡に映すダークコメディ
くぼたのぞみ
田舎暮らしを謳った本がもてはやされた時代がある。バブル期直後だ。ゆったり流れる時間は貴重だが、「憧れ」という幻想に包んで都会から地方を見る視線はいつだって、距離と無知の混じったエキゾチシズムに支えられ、都会からまなざされた幻想の陰で沈黙する地方の現実に蓋をしてきた。
だから震災後の東北に向きあおうとするとき、都会から見た東北幻想として読まれる宮澤賢治を仰いでも始まらないのだ。それは地方生活の閉塞した内実を知る者には自明だが、はっきりとは言いにくい。その言いにくさが、どれほど多くのことが都市文化の視点で語られているかを明かしている。少年たちの熱烈な友愛を描いた『銀河鉄道の夜』の著者は、国家主義を奉じる宗教団体の熱烈な信者でもあった。その時代と思想を批判的に検証しなければ危うい時代を『幼な子の聖戦』は照らしだす。
広やかな空間をもつ田舎も、ひと皮むけば息苦しい抑圧と隷従の沼地に浸かっている。この作品はそんな地方生活の諦めのエロとグロを、いったんは都会をめざしたものの尾羽打ち枯らしてUターンした蜂谷という四十四歳の男の目から、伏線なしに描きだす。政治絡みのどろどろした人間関係を思いっきりさらしていくのだ。
蜂谷は少子高齢化をたどる人口三千にも満たない東北の村の村議会議員だ。運送会社を経営してきた父親が当選確実になるよう根まわしした補欠選挙の結果である。性依存にでもならなければやってられないような閉塞感のなかで「人妻クラブ」と主人公が呼ぶセックスサークルでうさ晴らしをしながら、実家で暮らしている。
なんとなく連想させるのは、肌の浅黒い女たちで「セックスの問題を解決」してきた五十二歳の白人インテリ男が、人種差別撤廃後の南アフリカで恥さらしになる『恥辱』だ。J・M・クッツェーの『恥辱』は都会と田舎を往還しながら、人種と歴史、ジェンダー、動物の生命といった問題を深く埋め込んだホラー仕立ての小説だが、『幼な子の聖戦』は破れかぶれの四十男のセックスと排泄をめぐる細部が、自然主義文学もかくやとばかりに、てんこもり。主人公が自分の身体を存在論的に、露悪的に、陰茎、陰毛、肛門の襞までさらすことで掘り進む内圧が駆動力だ。
物語はこの列島の縮図のような村社会を舞台に、女性がらみの接待スキャンダルで辞任した村長の後釜を選ぶ選挙騒動として展開される。村の特産品を考案したりCMを作ったり、話題作りで村おこしをしてきた同級生の仁吾が村議全員から推されて立候補するも、次の県知事候補と噂される保守系県議が手をまわして対抗馬を立ててしまう。最初はかすかな希望から仁吾を応援すると約束した蜂谷だが、「サークル活動」の相手A子の夫がその県議とわかり、録画された性交場面をネタに暴行、恫喝されて、仁吾の選挙妨害活動をやるはめになる。もはや逃げ場もなく、こうなったら地獄に落ちると決意した蜂谷は、その高揚感をてこにやるべきことを見つけた冷笑的人間に豹変して、幼いころから(男たちから)受けつづけた屈辱への復讐戦を開始するのだ。
全編に挟み込まれる八戸なまりの異化作用が劇薬的ですばらしい。「選挙」と「勃起」を意味する英語の日本語読みがどっちも「エレクション」となることに「大いに腑に落ち」た主人公、どうせ政治は男だけで運営してきたものなんだと自嘲するところで、ダークな笑いも炸裂する。
一方でこれまで男たちに牛耳られてきたことにもう黙っていられないと女性や若者たちが立ちあがり、仁吾を応援して互角の選挙戦をたたかう中盤が、最近の地方の選挙戦やフェミニズムのたかまりをすくいあげる。最後は資金力豊かな保守陣営が考えついた、車と人海戦術による「老人たちの活用」で、ふぬけのような保守候補が僅差で勝ってしまう。疲労と混乱のあまり蜂谷は、子供のころ母親を殴る父親に向かって握りしめた出刃包丁をふたたび持ちだして……。
さて、気になるのは「幼な子」と「聖戦」だ。後半、村に住む気骨のある祖母のもとへ「福島」から避難してきたという少女の黒い目に蜂谷が吸いよせられる場面がある。東京に住んでいたころ、彼はキリスト教のとある集団の合宿に参加して「幼な子のような無垢な心」でいることに心惹かれたことがあった。そのせいか子猫を抱いた花柄ワンピースの少女の視線に虚をつかれる。猫とおなじ目。その強い残光に照らされて作中じわじわと不穏な気配がたちこめる。
こんなふうに少女の視線を持ちだすところもちらりとクッツェーを思わせる。義理の息子パーヴェルの下宿先の娘マトリョーナが主人公ドストエフスキーを熱のある目でにらむ『ペテルブルグの文豪』、片足のない六十代のポールを介護士マリヤナの連れてきた幼女リューバが大きな黒い瞳でまっすぐ見つめる『遅い男』、見られる男はどっちもいたたまれなさで破裂しそうなシーンだ。背後には幼い子供に無垢な聖性を見ようとするドストエフスキーの影がちらつくが、「カラマーゾフたち」に共感するクッツェーはむしろ、ぶざまな男の姿を凝視する少女の眼差しを、子供の直感で容赦なくものを見透す視線として使っている。
この作品では、子供の視線に無垢な聖性をもたせてはいるが、少女には三次元的な身体性が感じられない。名前もない。そこで「この世に無意味をもたらす破壊者」を自認する蜂谷の「聖戦」とは、自分の行為に意味と理由をもとめる鏡像としてのシンボルなのかと気づく。そんな設定やドストエフスキー風味の「憑かれた感じ」が充満するダークコメディは『気狂いピエロ』的オチまでついて、とにかく読ませる。
中央からの支配と地方の諦念と退廃を切開する作品からは、そのリアルを骨身にしみて知る地方出身者が、ジェンダーも含めた暗部に光をあてて、問題と向きあおうとする苦いひたむきさが感じられる。その苦さこそ、震災の絶望感がもたらした逆説的な希望と呼べるかもしれない。