遠の眠りの

遠の眠りの

著者:谷崎由依

福井市にかつて実在した百貨店の「少女歌劇部」に着想を得て、一途に生きる少女の成長と、戦争に傾く時代を描く長編小説。

ISBN:978-4-08-744478-0

定価:803円(10%消費税)

 購入する 
\SHARE/

【書評】 沈黙の雲を抜けて

中村佑子

「元始、女性は実に太陽であつた」。この有名な一節から始まる『青鞜』の平塚らいてうの言葉はこう続く。「今、女性は月である。他に依つて生き、他の光によつて輝く、病人のやうな蒼白い顔の月である」。そして「隠れたる我が太陽」を取り戻すべく「天才を発現せよ」と、女性の能力の回復を訴え、評論、文学での女性性の発見に留まらず、堕胎や自由恋愛の誌面上での告白など、多彩な拡がりを見せた。
 本書『遠の眠りの』の女性たちもまた『青鞜』に触れ、真の生き方を模索するのだが、この物語の女性は、当時の女性の現実を示す「月」よりも、もっと仄暗い沈黙が支配しているようで、その哀しみが強い印象を残した。女性たちの多くが平等を願って怒りの声をあげるにはまだ時間のかかる、一歩手前の時代。できるのは、自分のなかに起こる感情に嘘をつかないことだけだった。それを真摯に行おうとする主人公・絵子の、静かだが烈々とした姿がここにあった。
 物語を辿ろう。大正の終わり、福井の農村で絵子は、夕餉のおかずも進学も弟が優先され、女の将来は嫁に行くしか選択肢がないような閉鎖的な村にいる。絵子にとっては、嫁に行った姉の思いやりと、裕福な旅籠屋の娘・まい子の部屋で出会う、書物のなかにだけ安寧がある。
 だがある日、絵子は本心を口に出してしまう。弟の将来しか楽しみがない母のようにはなりたくない、と。絵子は勘当され、村を出る。
「川面と舟とをじっと眺めていると、明暗が反転するようで、気づくと風はふいとやみ、あたりはいちような仄灰色に包まれたまま、静かだった。ほう、と寒さがゆるんだから、見あげると、かたまりの雪が、ほとり、ほとりと、景色に落ちてきた」
 女たちの苦悩をそっと掬いとるような、端正な風景描写。息の長い文体は、登場人物の、すぐには感情表現をしない/できない姿を、そのまま映しとるようでもある。「ほうか」「ほやけど」という福井の方言が、閉鎖性を象徴するようでありながら、至極柔らかい。著者は福井出身で、翻訳家でもあるのだが、言葉に身を預けるような丁寧な成文に、言語への確かな信頼を感じさせる。
 絵子は市街地に出て、人絹工場で女工として働くことになり、女性の自立にいち早く目覚める朝子と出会い感化される。しかし、ある事件をきっかけに女工を解雇され、ふらふらと街を彷徨う彼女は、福井に初めて建てられた百貨店に遭遇する。
 色とりどりの商品が並び、まるで魔法の小屋に紛れこんだような百貨店の描写にこちらの胸も高鳴る。どことも命綱の切れた一人の若い女性の孤独を、都市の消費社会が抱きとめる。街であてどなく商品を買うという行為は、自分を消費者という匿名的な存在に化けさせ、村という地縁に結びついた連続性からいっとき自分を解放する。日本が貨幣経済を発展させ、近代国家として成長する駆動力には、人が「個人」というフラットで匿名的な存在になることの快楽があったのだろう。そんな認識が呼び起こされたのは著者の丁寧な調査に裏付けられているであろう、理知的な描写に導かれてのことである。
 絵子は百貨店の魅力に憑かれ、あてもなく通ううちに、新設されるという少女歌劇団の「お話係」としてスカウトされる。ここで登場する役者キヨの、性別を超えた存在が物語に風穴をあけるようで鮮やかだ。
 一方、故郷に帰ってみると、村は明らかに荒廃し、弟は学問もできずただ無為に家にいる。父たちは「農本主義運動」という宗教まがいの活動に精を出すばかり。都市が栄えると同時に、村は貧困に喘いでいたのだ。
 そしてまい子は、かつて絵子が書物を読んだ部屋で絹織物に励んでおり、そこに転がり込んできたキヨの兄・清太と恋をしていた。まい子は言う。女性解放の思想というのなら、恋をしている私もまた一つの女性の生き方だと。
 村の現実を知った絵子は、再び都市に戻り、初めての脚本を書く。ひとつは〈はごろも〉という、まい子をモデルにしたような物語、続いて〈遠の眠りの〉は、女たちを乗せたたくさんの小舟が、彼女たちの独白を闇に混じらせ合いながら進むという、前衛劇のような戯曲だ。
 自由が制限された社会のなかで、それでも女たちは舟を出し、どこか広い場所を希求していた。故郷を捨てた絵子も、田舎に居続け恋に生きるまい子も、結婚した姉も、女性解放と労働運動に身を捧げた朝子も。たくさんの女たちの物語は、みな私のものだったかもしれない。書き終えた絵子は思う。
「女たちという難民。わたしもまい子も、その一部なのだ。わたしたちはべつべつに、それぞれに戦ってきたのだと思った」 
 彼女たちに沈黙を強いてきた社会を覆う靄の重さを感じるとき、その沈黙の哀しさにハッとする。それに気づかなければ、絵子が書いた戯曲は、思想ありきのプロパガンダ小説という誹りを免れないかもしれない。事実、絵子は公演後に非難を浴び、彼女自身、私がやっていることは「お話」ではない「ほんとのこと」、つまり事実なのだと気づかせるところまで、著者は書き置くのを忘れない。
 その後、国は戦争に突入し、男たちはみな兵隊として戦地に遣られ、やがて敗戦を迎えた焼け野原に立つ絵子のなかには、ほのかでささやかな希望の火が灯る。絵子の次の一投は、きっと物語として光を放つものになるのだろうと思わせるたしかな眼差しがそこにあった。
 一人の女性が近代日本の悲喜劇を見つめている。大正から昭和二十年までの動乱の時代は、女性運動の視点でいえば、大正デモクラシーの大波に促された『青鞜』をはじめとした婦人解放運動が、戦争への突入により、次第に戦争協力を行う婦人会へと回収され、戦前の希望が弊えた時代でもあった。
 しかし、私たちは敗戦後の日本に、新たに女性の解放を願う動きが興ったこと、そして未だに変わらぬ不平等の岩盤を壊せずにいることの両方を知っている。だからこそ抑圧された沈黙のなかでも真実を生きようとした、絵子のひたむきな生に輝きを見出すのだ。