自由小説集

自由小説集

著者:松波太郎

大きくはない。小さい。それでもきっとこの〝小〟さい〝説〟には、可能性がつねに巡り続けているはずだ──のちに治療家に転身した小説家が向き合った三体の人体。そして三篇の中篇・長篇。さらには三流の自画像に直面した「梅波三郎」四篇をも収めた自由小説集。収益からも自由になろうとするチャリティー小説集。ここに収められ、ここからまたはみ出していく……(※本書は「踊りませんか、榊高ノブといっしょに」「イールズ播地郡」「台風全号」のほか四篇のエッセイを収録した合冊版です。)


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【書評】言葉のダンスを、お前は見たか!

矢野利裕

 松波太郎『自由小説集』を書評するにあたっては、昨今の小説を取り巻く状況について言及するところから始める必要があるだろう。本作が電子オリジナルとして刊行される背景には、新人作家がなかなか紙の書籍を刊行できないという、あまり楽しくない現実がある。このことについては、すでに電子書籍レーベル「すばるDigital Book」から作品を発表している青木淳悟(「鼎談 電子書籍による文学の可能性」『すばる』二〇一九・八)や太田靖久(「古本と電子書籍とZINE」『すばる』二〇一九・一一)が、それぞれ言及している。共通するのは、自分の作品が文芸誌に掲載されても、紙の書籍にならないと忘れ去られてしまう、という認識だ。
 そんな渋めの小説シーンにおいて、松波太郎を応援したいという気持ちが、個人的にはけっこうある(青木さんと太田さんも応援しています)。それは、以前から、松波の小説および言葉に対する姿勢と考えかたに共感するところが多いからだ。松波作品の随所で見られたその小説・言葉に対する姿勢が、明確に作者の言として発されたのは、二〇一四年、野間文芸新人賞を受賞したさいの「受賞のことば」においてである。

身体と文体の関係を唯一の文学観のようにもっています。自分の身体にはこういった書き方しかできません。(中略)生まれてからずっと離れないリズムがやはりこの〝受賞のことば〟にもこびりついているのです。(「受賞のことば」『群像』二〇一五・一)

 松波の小説に共感を覚えるのは、松波作品における言葉に身体の感覚が拭いがたく刻まれていると思えるからだ。収録作「イールズ播地郡」には、「はいはい、重い話は禁止でーす。禁止、禁止ぃ……」と言いながら、「いきなりリズムをとりだ」し、そのまま「ひとりで歌いだし」てしまう「球団社長」が登場する。この「球団社長」のコミカルなありかたからも一部想像できるように、松波は、言葉が「身体」に根差しているという感覚を強くもっている。ちなみに言うと、同じことは、町田康、西加奈子、町屋良平といった小説家などにも感じる。
 大事なのは、現実世界において言葉が発されるとき、そこには必ず身体が関わっている、ということに自覚的であるかどうかだ。もっとも、書き言葉としての小説は、発話者の身体感覚を消去したところに成立するものとも捉えられる。だから、より正確に言えば、松波の試みとは、身体性を排除した小説に身体感覚を再導入することだと言える。
 このような試みは、文学史上になかったわけではない。大正から昭和初期、宇野浩二や太宰治による饒舌的説話体の試みは、小説における語り手を顕在化させることで語り手の身体性を強めた。とくに太宰は、私小説の方法論を踏まえながら、書く私/書かれる私を意識的に乖離=解離させることで、語り手の身体性を強調すると同時に言葉の虚構性を浮き彫りにした。松波の試みは、そのような太宰の試みと一部重なる。とりわけ、「踊りませんか、榊高ノブといっしょに」における「これは、わたしが前からどうしても一回つかってみたかったフレーズだったので、筆勢あまってつかってしまった脚色である」という自註などは、そのメタフィクション性も含め、太宰を強く想起させる。
 言葉で表現しようとしても、言葉が現実に追いついて来ない。あるいは、言葉が現実を追い抜いてしまう。そのギャップを埋めるように、また言葉が費やされる。「踊りませんか、榊高ノブといっしょに」においては、「榊高ノブ」という人物をめぐって、このような言葉の運動が続けられる。この言葉の運動こそが「踊り」に他ならない。終盤での「キミといっしょに踊ってるヒマなんてないんだよ、オレには」という榊の言葉、その榊の言葉と共鳴するような題名。「踊りませんか、榊高ノブといっしょに」においては、言葉がまるでダンスを踊っているように躍動している。それは、言葉が発話者の意志から自立するように、身体性をともなって振る舞うからだ。
 松波の作品は、このような言葉と身体との幸福な絡み合いの記憶を取り戻そうとする。そのような松波的主題に思いいたるとき、一風変わった「イールズ播地郡」がむしろ、感動的な物語として迫ってきて、不意に、思わず、けっこう泣きそうになる。
 夫とひとり息子を車の事故で亡くした鱒江は、ある日、「イールズ播地郡」という球団からドラフト指名を受ける。と言っても、それは野球ではなく、〈キムギファン〉という謎めいたスポーツである。果たして、そのスポーツにおいて、鱒江は「最後にポーズをきめる人」に任命されるわけだが、そのポーズは、事故死した夫と息子を想起させる「アッチッチ」のポーズだった。
 この身体と言葉が絡み合うなかで取り戻される幸福な記憶よ! わたしたちの幸福な日々とは、このような身体と言葉の甘美な絡み合いのことではなかったか。だとすれば、「イールズ播地郡」の鱒江は、事故後の身体からふたたび言葉を紡ごうとしている人に思える。事故まえの幸福な日々を求めて。そして、その姿は、言葉と身体の絡み合いを取り戻そうとする松波自身の営みとも重なって見える。
 頭で考えたことがそのまま言葉となってあらわれるのならば、身体とはなんと無機質なものだろう。身体はむしろ、発話者の思考や意志すらも裏切ることがある。「室内を体内と見立てる自分の意識とは裏腹に、内奥に潜んでいる存在はわたしの口と声帯を借りて、台風の音響とはちがうことを懺悔するようにつぶやいていた」(「台風全号」)とあるように。
 この言葉の身体を通じた裏切りに、小説の本領を感じる。発話者はおろか、社会や世界をまるごと飲み込んで語られる言葉のありかたに関心がある。電子書籍というメディアは、そのような小説の言葉をいかに見せていくのだろうか。