私の家

私の家

著者:青山七恵

生まれ育った家、手に入れた家、記憶で組み上がる心の中の家──。いつか帰れるだろうか、ここなんだという場所に。三代にわたって描かれる「家と私」の物語。

ISBN:978-4-08-744466-7

定価:913円(10%消費税)

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【書評】 家族は家族だけでは生き延びられない

斎藤真理子

 実家の昔話は、旧約聖書みたいだ。
 名前しか知らない人がいっぱい出てきて、怒りっぽかったり気の毒だったり、大儲けしたり、戦争に行ってきたりしている。もちろん会ったことなどないが、何度も聞かされたので名前を覚えてしまう。神話や旧約聖書の預言者みたいでもあり、預言者に叱られている人間みたいでもある。何度聞いても彼らの関係が完全にわかることはなく、すべてが過去形で、誰もが死んでいる。
 実家を出て、自分の家や家庭といえるもの──とりあえず新約聖書だ──を持つ。そこには平べったい照明が当たり、いつも忙しい。あわただしく自分の家を切り回しているあいだに、実家はどんどん「旧約化」していく。ところが恐ろしいことに、そのまま二十年、三十年が過ぎると、新しいと思っていた自分の家もまた足元から「旧約化」していることに気づくのだ。子どもの目から見れば自分もすでに物語の一部らしいと思い知らされる。
 青山七恵の『私の家』はそんな、「旧約」と「新約」のあいだの葛藤、交流、和解を、ほんとうにじっくりと書いている。どれほどじっくりであるかは、一ページめの描写を読めばすぐにわかる。
 祖母の法事のために東京から帰省してきた二十七歳の梓。彼女が実家の庭先で、死んだ蚯蚓を見ているシーンが冒頭にある。蚯蚓の身体の「端のほうの、ほかの部分に比べて色が薄く太くなっている部分が、昆布に巻かれた干瓢に似ている」、とある。またそのとき、「雨樋にひっついているあぶら蝉がねばっこい鳴き声をあげていた」とある。
 梓は同棲していた恋人と別れ、東京の家を引き払い、仕事も辞めてしまった。今は友人の家にやっかいになっている。そのことを両親にぼそぼそと告げて呆れられ、またここに住ませてもらうしかないよな……と思いながら、蚯蚓を見、蝉の声を浴びて座り込んでいる。これこそ旧約と新約が交錯する時間、家族の歴史と自分の歴史がお互いを見つめている、のっぴきならない時間だ。
『私の家』は一章ごとに視点を変化させながら進む。梓の視点から、その母・祥子の視点へ。そのあと、祥子の叔母・道世の視点へ。文章自体は三人称なのでそれぞれの心情に寄り添いすぎることはなく、しかし同じできごとが多様な角度から描かれる。そのとき、カメラを引いて「家」とそれを取り巻く世界を俯瞰するのが梓の役割だ。
 十一章から成り、合計七人の視点から描かれる本書だが、梓の視点による章が三章で最も多い。それはもしかしたら、梓が「親ではない大人」という立ち位置にあるからではないか。よく「親になったからこそわかる」と言われるが、この場合はそれが当たらない。家族の旧約時代をひもとくには、子どものとまどいや恐怖心、好奇心が必要だからだ。親になった人はしばしば自分のそれを封じ込めてしまう。
 梓の母、祥子は子ども時代、三人きょうだいの中で自分だけが祖父母の家で育つという経験をした。母親の病気という、やむをえない理由があったからなのだが、母娘の間に、またきょうだいたちの間にはっきりした距離感、遠慮、いたわりとわだかまりを生んだ。その錯綜の中で事件が起こり、祥子にも、兄にも母にも傷を残す。
 体育の先生として元気いっぱいの人生を歩みながら、心の奥底に深い傷、汲みつくせない井戸を抱えたような祥子に、夫も子どもたちもぴったりとくるパズルのピースを差し出せない。祥子の方でも、母にも娘にも容易に心を開けない。
 そんな彼女が、まるで横すべりするように、偶然出会った若いシングルマザーとその娘に心を寄せていく。一方で梓の父も、ひょんなことから隣人との不思議な交流を深めている。それは彼の言葉によれば「家に帰りなおすために」必要な作業なのだ。
 家族、親戚、恋人、知人友人、同僚のいずれでもない、偶然会った隣人たち。彼らと過ごす時間を通して、梓の母と父は家族の時間をメンテナンスしている。それはかつて、梓の曾祖父たちが営んでいた「洗い張り」の仕事のようだ。クリーニングではしわは伸びるが縫い目の奥の疲れは取れない。着物を一度ほどいて洗い、仕立て直すことが必要なのだ。そして梓がその工程をじっくりと見届けていることに、読者もまたほっとする。
 梓の気持ちを語る、印象的な文があった。「ひとまず何かをくれるひとが親たちにいるということに、梓は彼らの子としてなんとなく安心する。誰かに何かをあげたりもらったりしているうちは、人間はしっかりしていられるという気がする」。
『私の家』は家族の物語だが、家族は家族だけでは生き延びられないということをくり返し訴えている。旧約の世界が、よその新約の世界へとあふれ出し、「放っておけない」という気持ちが境界をこえるとき、何かがゆっくりと時効を迎え、梓自身も旧約と新約の境目で、立ち直っていく。
 物語の最後で、別れ別れになっていた家族のメンバーが何十年ぶりかで再会する。そこでも結局、旧約時代の謎が完全にときあかされるわけではない。できごとの顛末はわかっても、それを体験した人の気持ちは結局、わからない。けれどもそこで祥子の姉、純子はこんなふうに言う。「だってあたしたちが自分で発見したつもりになってるどんな気持ちだって、ほんとのところはあたしたちのおじいさんおばあさんとか、そのまたおじいさんおばあさんが、誰にもわかってもらえなかったその気持ちなのかもしれないんだからね」。
 ラストに「因果」ということばが出てくるが、こんなに風通しのよい「因果」もあるのかと新鮮だった。この小説は一つの許しの物語でもある。だが、キーワードは「本人じゃなくてもいい」だ。どういうことかは読んで確かめてほしい。