【書評】GでもTでもQでもなくI
神田法子
実家に帰ったら父が母の服を着て暮らしていた⁉ しかも父は男と結婚するって⁉
『おいしい家族』に描かれているエピソードを端的に要約した、これらのふれこみを目にすると、最近文学や映画、美術や音楽といった表現の中でもさかんにテーマにされているLGBTQのゲイやトランスジェンダー、クィアを扱った話なのかと思ってしまうかもしれない。でも読み進めていくと肩透かしを食らう。そこにはセクシュアリティや愛の形の多様性を表すために生まれたLGBTQという言葉に収まりきらない、もっと人の多様性を感じさせる、そして人間としての素朴な姿が描かれているからだ。
母の三回忌で郷里の離島に帰った橙花は、まずそこに変わらないものを見出す。島の空気、家の匂い、あちこちに残る母の面影……。ところが突然異物が飛び込んでくる。母の服を着て平然と家事をこなす父、当たり前のように食卓に並ぶ見知らぬ中年男と女子高生(男の娘でダリアという名の彼女はハーフのような容貌で父親とは似ても似つかない)。あろうことか父の青治はその中年男・和生と結婚し「母さんになろうと思う」と宣言する。弟の翠はスリランカ人の妻を迎えて彼女を(生まれた国の文化も含め)溺愛しているし、実家の状況も寛容に受け入れている。島の人みんなが、生真面目な校長だった父が母の服を着て生活していることを異常と思わず受け入れている。そのことが橙花の苛立ちに火をつけるのだ。「父はその……ゲイだったんでしょうか」と和生に直接尋ねさえもする。しかし答えはノー。そこにはキスやセックスといった性的な要素は介在せず、ただ「愛」だけが存在するのだ。
そもそも帰省前、橙花はいろいろな意味で行き詰まっていた。東京・銀座で化粧品関係という華やかな仕事をし、百貨店のバイヤーを務める夫とは結婚三年目、だが夫との関係は危機的状況を迎えていた。できるだけ冷静にお互いの事情を尊重しているように見せかけているけど、そのたびに開いてしまった距離感に密かに絶望する。帰省前に一度外食を共にするが、すれ違いは露骨に響いてくる。橙花は都会の中でごく普通の生活を送ろうとしていただけだと思う。高校を出たら大学に行って、就職をして、自分に似合う感じの恋人を見つけ、適当な時期に結婚すれば、世間では何の文句もない大人として扱ってもらえる。でも世間一般なんていう漠然と広がった物差しで見ようとしたって、何も見えてこず、どんどん大切なものを失ってしまうなんてよくあることだ。
そんなとき、あえて自分の見える範囲を狭くすることが解決策になるのかもしれない。このタイミングで島に帰ることになったのは、ある意味必然で福音だとも言える。狭い島で、しかも島唯一の高校の校長先生という地位も知名度もある青治の奇行が、島中に簡単に共有されてしまうのは想像に難くない。田舎のコミュニティの中では偏見が助長されそうなものだが、それこそ偏見で、翠の幼なじみのエビオのセリフに「つーか島民みんな知ってんじゃないっすかね?」とあるように、島の人間関係だから母を愛していた生真面目な父をみんなが知っていて、お互い人と人として向き合える関係が築けているからこそ当たり前のように受け入れられているのだ。人と人がお互いの顔を見て大切にできる関係の中では、見てくれや役割が変わることも、境界線がなくなることも、抵抗がなくなるのかもしれない。島の人間が素朴だからというわけでなく、東京から三回忌に訪れたデザインという生業を持つ洗練された伯母でさえも、青治のありさまを「いいんじゃないの」とあっさり受け入れてしまうのだから。
橙花にとってこの島が世界のすべてだった中学生の頃、誰も来ない神社の階段の先にある狭い入江によくひとりで来ていた。自分の閉じ込められている狭さに気づけたから島を離れる決意ができた。久しぶりに訪れた入江には、かつての自分のように悩みもがいている瀧という少年がいた。瀧はある意味過去の橙花であり、彼が橙花の家族とふれあいながらその葛藤が昇華されたとき、物語は大団円に向かう。
本作は、映画監督でもあるふくだももこ自身により同名の映画が制作され公開された(脚本もふくだが手がけている)が、小説でも映画でも伝えたいメッセージはほぼ同じで、エピソードやセリフも重なる部分が多い。だが単なる映画のノベライズというものに終わってはいない。文章によって伝えるのが効果的なエピソード、映像で語らせる方が伝わりやすい現象は巧みに使い分けてある。小説、映画双方の手法と魅力を知り、その両方を選び、同じタイトルで作品をつくった意図が明確に読み取れるが、特に小説の方では感情表現が深く、繊細になされている。
小説で強調されているもののひとつに「口紅」が挙げられる。冒頭でキャリアウーマン然とした橙花が口紅三種類を使い分けている描写がある。しかしその日の夫との外食にはうまく口紅が選べず、どんどんぐしゃぐしゃに惨めな様相を呈していくさまが象徴的だ。ふくだももこの過去の作品にも口紅は象徴的なものとして登場する。それは本作同様、大人の女性としての母への憧憬のようなものだ(夫婦仲がうまくいかなくなった原因のひとつに、母の死とその喪失感が落とす影があったということを説明しているのも小説の言葉によってだ)。橙花が実家で見つけた母の口紅をお守りのように持っているさまは映画でも丁寧に描かれているが、その口紅は、今度は瀧に施され、彼の未来を拓くことになる。
ふくだももこは映画公開時のインタビューで、『おいしい家族』で描いている世界を「ユートピア」と表現した。それは血のつながりや国籍なんか関係なく、人が人と向き合い愛を与え合う家族に与えられるべき称号だろう。