激越!! プロ野球県聞録

激越!! プロ野球県聞録

著者:青木淳悟

そこが道かと思えば道ではない。ただならぬ事態にようやく気がつく。どこで道を踏み外したのだったか、路上は路上でも鉄道線路上なのだ。東京都内某所、高架線。しかも自分はあるプロ野球チームのユニフォームを着てそこにいる。もちろん追われる身なのである。だから逃げる、だから走る。そう簡単にアウトにされてたまるものか──。(本文第3章より)。純文学×プロ野球×都道府県!? かつてそこにあった危機「球界再編問題」の、数々の名場面と派生的諸問題及び周辺的事件の裏に潜む真実とは──。激越せよ、激越せよと呼ぶ声あり。それはいつ果てるともない、終わりなき旅の記録なのだ。


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【書評】未遂の文学

遠野よあけ

「……そうは簡単にいくまい、新潟米。」
 ダジャレに意味はない。ダジャレはただ、言葉Aと言葉Bをつなぐ経路である。青木淳悟『激越!! プロ野球県聞録』にはダジャレが頻出する。上述のダジャレはその一例だ。ここで「新潟米」と小説内に書くことに積極的な意味はない。「新潟米」の一言は、意味を構築することなく、続く文章の波のなかで消えていく。読者の脳裏には、言葉A「そうは簡単にいくまい」と言葉B「新潟米」をつなぐ経路の軌跡だけが残像のように明滅している。
『激越』は経路について書かれた小説だ。無論それはダジャレの経路だけを指すのではない。この小説の主題は、日本の国土を縦横に走る鉄道路線である。鉄道は駅と駅を結ぶ経路であり、そのことは小説内でも強調されている。しかしより重要なのは、この小説がプロ野球と日本をつなぐ経路として鉄道路線を書いている点だ。
 日本地理に対するイメージは人それぞれ様々だろう。例えば私は、学校で習う地理が苦手で全く頭に入らなかった。私が日本地理を考えるときに頭の中で参照するのは、学問的な地理ではなく、ゲーム『桃太郎電鉄』で描かれる日本国土だ。鉄道やフェリーを駆使して日本を駆け巡り、企業の総資産を増やしていく双六ゲームとしてのヒット作『桃鉄』は、1988年にファミコン版第1作が発売されて以降、2016年まで20作以上続いている大人気シリーズだ。『桃鉄』で私は地方の特産品を記憶し、プロ野球の主要な球場の所在地を覚え、おそらく日本列島内の距離感を掴んだのもこのゲームに触れてからだ。産業・鉄道・プロ野球・災害・ニュースと、『桃鉄』と『激越』は主要なモチーフがかなり重なっている。しかし大きな差異もある。ゲームである『桃鉄』には明確なゴール(終了時点で対戦相手よりも資産が多いこと)があるが、『激越』にはそれがない。いや、一応作品中では「新潟にプロ野球球団を招致する」という目的があるにはあるが、それは達成されないし、どう読んでもそれが達成される予兆すらない。
『激越』を読みながら私は中上健次の『紀州』を想起した。『紀州』は、中上が自身の故郷である紀州の地を車と徒歩で移動しながら、土地の人びとに被差別部落について取材を重ねるルポルタージュだ。おそらく中上は、天皇を中心に据えた日本という国家体系と、大和から迫害された土蜘蛛の末裔(とみなされてしまう周縁の人びと)が多く住む紀州の土地を対比しながら、日本の脱構築的リデザインを企図していたと思われる。その一つの結実が『地の果て至上の時』だが、その企図はそこではまだ途上であり、遺作『異族』が未完に終わったことで、ついに途上のまま途絶えてしまう。
 青木の『激越』もまた、プロ野球をもう一つの主題に据え、そこから展開される鉄道経路(と関係する風土や経済)を用いて日本のリデザインを再演しようとしている。これが再演であるというのは、この小説が実際にあった出来事「プロ野球再編問題」を扱っているからだ。2004年のプロ野球界は、業界のリデザインを進める勢力と、それを阻止しようとする勢力とが衝突していたが、最終的には大きなリデザインは起こらなかった。
 青木はこの現実の事件に、一つの偽史を挿入する。新潟県民の球団招致活動における暗躍である。小説では彼らの行動が主に描かれている(が、具体的に何をしているのかは曖昧だ)。プロ野球の二つのリーグ、セントラル(中央)とパシフィック(太平洋)から、あたかも疎外されているかのような日本海に面する新潟県。球界とその周縁。ここに『紀州』の大和と紀州の関係を重ね合わせると、新潟県民たちの暗躍は、日本プロ野球界(ひいては日本)の脱構築的なリデザインだったと考えられる。
 しかし『紀州』とは異なり、『激越』の新潟県民の企図は途上で終わるのではない。それは未遂で終わっている。「プロ野球再編問題」のゴタゴタは時と共に風化し、新潟県民の企図を継ぐ歴史は存在しない。
 未遂は後に何も残さない。ゆえに未遂は容易く忘却と結びつく。2013年初出の『激越』が、平成の終わりの2019年に刊行された事実は示唆的である。2004年の日本には、日本をリデザインする可能性が確かに存在した。しかしそれは未遂のまま終わり、私たちはその可能性そのものを忘却した。『激越』は未遂をめぐる物語であり、また同時に私たちにとっての「平成の忘却」そのものなのだ。
 振り返れば、青木淳悟は常に未遂の作家だったと言える。デビュー作『四十日と四十夜のメルヘン』は、初出、単行本、文庫と版を変える度に大幅に加筆修正されている(賞への応募原稿も初出と内容が異なる)。またその物語自体も四日間の日記を幾度となく書き直すという内容である。書き直してはまた書き直す。青木の書く文章は常に完成形であることを拒否する未遂の文学だ。『激越』が大幅な加筆とともに、物としての形を残さない電子書籍という形態で刊行されたことにもまた必然性がある。後に何も残さない未遂を徹底することは、形すらも受け入れないということなのだ。
 未遂であることで意味と意味をつなぐ言葉の経路は常に変容し複数化していく。経路ばかりが増えていく。そう考えると、『激越』で描かれる暗躍する日本海勢力は、新潟県一つに限った話ではないようにも思えてくる。2004年の日本では、幾つもの日本海勢力が暗躍し鉄道で移動し脱構築的リデザインのための経路を走っていたのかもしれない。しかし歴史が示す以上、それは成功しないことが約束されている脱構築だ。脱構築未遂の経路が増殖し続けた日本のある一年の物語。ここにはデビューから一貫する青木文学の本質が宿っている。
 未遂の行為であってもそこには経路があり、責任の所在もあれば、人の生きた時間もある。青木の文学は常にそのことを書いている。
『激越』の次の一文は、未遂の経路に迫る青木文学を端的に表している。
「行方知れず、行き先不明、存在するはずがない列車が運行されるなどどうして信じられようか……」