アタラクシア

アタラクシア

著者:金原ひとみ

望んで結婚したのに、どうしてこんなに苦しいのだろう——。

最も幸せな瞬間を、夫とは別の男と過ごしている翻訳者の由依。
恋人の夫の存在を意識しながら、彼女と会い続けているシェフの瑛人。
浮気で帰らない夫に、文句ばかりの母親に、反抗的な息子に、限界まで苛立っているパティシエの英美。
妻に強く惹かれながら、何をしたら彼女が幸せになるのかずっと分からない作家の桂……。

「私はモラルから引き起こされる愛情なんて欲しくない」
「男はじたばた浮気するけど、女は息するように浮気するだろ」
「誰かに猛烈に愛されたい。殺されるくらい愛されたい」

ままならない結婚生活に救いを求めてもがく男女を、圧倒的な熱量で描き切る。
芥川賞から15年。金原ひとみの新たなる代表作、誕生。

ISBN:978-4-08-744383-7

定価:836円(10%消費税)

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【書評】現状維持という選択

ミヤギフトシ

『アタラクシア』の登場人物たちは私の、そしてきっと多くの人の共感を拒むような人々だ。フランス在住経験のある元モデルで翻訳家の由依、同じくフランスで経験を積んだ後に東京でフレンチレストランを開いた瑛人、そのレストランでパティシエとして働く英美、由依の夫であり小説家の桂、由依の担当編集者で、ミュージシャンの夫を持ちながら同僚の荒木と不倫をしている真奈美、自分の「整いすぎた顔」をしっかり理解している由依の妹・枝里。彼らの多くは表層的にはいわゆるリア充と形容されるような人々だが、もちろんそんなことはない。英美は夫の不倫と暴力的な言動を繰り返す息子に絶望していて、誰に対しても常に攻撃的な態度を取る。桂は過去に盗作騒動を起こし、ストーカーまがいの行動に走ったりもしている。真奈美は夫のDVを恐れていて、荒木と過ごす時間に慰めを求めている。枝里は、よりを戻せば自分が傷つくことを知りながらも恋人を忘れられずにいて、その苦悩と同時進行でパパ活を続けている。
 登場人物の多くは出口なしの日々を送っているが、その中で由依と瑛人の切実さは伝わりづらい。英美に由依との不倫関係を問われて「時々死にたくなる」と答える瑛人や、「私は大丈夫じゃない」という由依の言葉は空虚に響く。桂に「ドーナツの穴」だと形容される由依、その由依は瑛人のことを「敷居を跨いで足を踏み入れてきて、こっちが手を伸ばそうとするとすぐにその足を敷居の外に戻す」と感じている。ふたりは決して自分の心のうちを配偶者にも恋人にも明かさないし、瑛人の言動は時に鈍感ではあるものの、基本的に相手の領域にも踏み込まない。他者の共感を拒むような彼らに私は強く惹かれていて、それはきっと私自身がかつて外国人としての体験をしたことも大きいのだろう。アメリカに留学し、言語だけにとどまらない分かり合えなさの中に身を置き、そして現地に居続けることを諦めてしまったものとして、フランスでふたりがそれぞれに経験したであろう苦しさはなんとなく想像できる。分かり合えない人がいる、という気づきは異言語・異文化に身を置くことでさらに強調される。もちろん安易な感情移入をするつもりはない。それぞれに辛い体験や挫折を経て帰国しているし、由依はさらに帰国後、開きかけた扉を閉じてしまうような体験もしている。
 偶然性の不安から身を守るように結婚というルールの必然性にすがる人々を揶揄する桂に、「内側からでも外側からでも、その殻を大切にしている人を揶揄することなんて誰にもできない」と言う由依は、瑛人との時間を過ごしながら確実なものを求めている。「投棄された後ずっと変わらず存在し続ける腐食しないプラスチックゴミのよう」に確実なものを求めるなんて、途方もなく切実だ。彼女は一方で、日々の積み重ねによって得られる確実さを信じていない。必然性は日々変わるし、それはある瞬間に起きた物事でしかない。だからこそ偶然もまた、ある瞬間に起きたひとつのことと認識しているように見える。自分自身を過信せず頼りないものとし、それでも確かなものを求める。それは桂の言うように「私」のない受動的な態度なのかもしれない。しかしそのような彼女の態度にどこか近しさを感じてしまうのは、先の渡米経験に加えて私自身が若い頃随分長い時間をクローゼットの中で過ごしてきたことも関係しているのかもしれない。私は今も面と向かって家族にカミングアウトをできていない。いつかちゃんとしなければと考えつつ、ずっと宙づりの不安の中にいるような気分で居続けている。随分前にアメリカで、ある人が「そんな簡単なこと、言ってしまえばいい」と言った。家族なのだから分かってくれる、とそういう意味だったのだろう。価値観の違いは理解できるし、彼の言うことも真っ当なことだけど、その時私は彼に対して無性に腹を立てていた。そんな思いを抱えながら、そして彼の意見の正当性も分かりながらも自分の心のうちを明かすことができずにいる私は、誰とも分かり合えないという前提で生きているところがある。随分ひねくれていることは自覚しつつも、殻に閉じこもることの辛さや心地よさも経験したつもりだから、必然性と偶然性、殻の中と外という対比で物事や人を判断したくないし、誰かの意外な言動を二面性という言葉で片付けたくはないとも思う。
 この小説において象徴的な存在となるのが、真奈美の不倫相手である荒木だ。「元ヤンの雰囲気を残しながらヤンキーの垢抜けなさだけが抜け落ちたような、一歩間違えば事故認定されるのをぎりぎり回避している、絶妙な達人技を経たダメージジーンズのような男」という、世捨て人的な魅力を持った彼。バツイチで女遊びも激しい荒木は、夫のDVに苦しむ真奈美にとっての慰めであり、そして彼は確かに彼女に対してとても優しい。物語の後半、それまで描写されてきた荒木とは異なる彼の行動が描かれる。しかし、彼が真奈美に見せた優しさは本物だったのではないか。もちろんその後真奈美が大きなダメージを受けることは容易に想像できるし辛い。ただ、その瞬間の確かさを否定はできない。たとえそれがすぐに失われたとしても。由依が言うように、人はどこまでも「不確実性の塊」だ。
 アタラクシア、心の平静。この小説においてそれが決して幸福とイコールではないことは、読み進めるうちに分かる。最後、桂は由依を分からない存在であると認識しつつもひとまずの現状維持を選択し、彼との離婚を決意したはずの由依もまた、その選択を受け入れたようにも見える。残酷な未来の可能性も示されており、この均衡状態は極めて危うい。しかしそこにあるのは、決して絶望だけではないはずだ。