フェイクコメディ

フェイクコメディ

著者:青来有一

「今夜、第四十五代アメリカ合衆国大統領、ドナルド・ジョン・トランプがここを見学する。大統領みずからの希望だ。館長として案内をしてほしい」歴史上初の米朝首脳会談のニュースが流れる2018年5月のある朝、長崎原爆資料館長の「わたし」の目の前に、キッシンジャーと名のる謎の男が、突然訪ねてきた。長崎市内ではトランプ大統領の「そっくりさん」の目撃情報がSNS上にあふれ、地元のマスコミが騒ぎはじめた……。テレビ局による大仕掛けの撮影か、それともテロリスト? NHK『おはよう日本』でも紹介され話題になった、核兵器と人間をめぐるポリティカル・フィクション。


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【書評】異界への扉

若松英輔

 優れた小説は、読者に多層的思考──「思考」ではなく、イマージュをたぶんに含んだ「思念」というべきかもしれない──の扉を開く。小説を味わいながら、読み手はそれまでの自分の人生の出来事を反芻し、また、書き手の言葉によって呼び覚まされた、ある重要な言葉を想起する。
 この小説を読みはじめ、ページをめくるたびに押し寄せてくる『ユング心理学入門』に記された河合隼雄の言葉があった。

……芸術家の描き出した像は、われわれの内部の奥深く作用を及ぼし、われわれは、自分の内部に確かに存在するものを、このひとが描き出すまで、どうして気づかなかったのかと思ったりする。そして、このひとが、その像を作り出したり、考え出したりしたのではなく、まさに、見聞したことをそのまま伝えようとしていることに気づくのである。かつて、画家のシャガールは、空想の世界を描いているといわれるのを嫌って、「私は現実の世界、内的現実(inner reality)を描いているのだ」と答えたという。

 ここでいう「内的現実」こそ、本作の真の主題だといってよい。
 主人公は、長崎市にある原爆資料館の館長をしている。定年も近く、これまで自分が行ってきたことを振り返ろうとするところからこの物語は始まる。人間が希望する行為を「内的現実」が拒む、それを強く否むと感じて実現しないことがある。主人公は、じっくりと半生を省みてみたかった。だが、抗しがたい彼だけの「現実」が異界へと引き込む。そこで出会ったのが、キッシンジャーだった。
 アメリカのニクソン、フォード両大統領時代の国務長官であり、一九七七年に退任した後も──今もなお──国際間の難問題の交渉役として活動している人物だ。九十五歳になる。この男が、主人公にトランプ大統領が、秘密裡にここを訪れることを希望しているというのである。  こう書くと、小説だとしても、荒唐無稽だと思われるかもしれない。だが、読者はその予測を裏切られるはずである。主人公自身が、そのことを強く疑う。そもそもアメリカ人が流暢な日本語を話している。「偽のトランプだ! べらべらと日本語をしゃべっているではないか」。だが、そうした反省が、ほとんど無意味であるかのように、「現実」は主人公を動かしていく。
 現代日本において巧みな小説は少なくない。だが、それは作品世界に読者を没入させるだけで、その先へと続く扉は開かない。開かないというより、そうした「つくり話」に異界への扉は、存在しない。いわばプールのようなもので、楽しむことはできるが、人間以外の生き物にそこで遭遇することはできない。この作品は、違った。異界との穏やかな、しかし、確かなつながりを描き出している。
 長崎、それも爆心地である浦上をめぐって作者は、これまでも作品をつむいできた。亡き者たちの声を聴き取ろうとする、文学本来の仕事を続けてきた数少ない小説家の一人だ。本作は、それらのどれとも似ていない。むしろ、この作家がすでに新しい地平を歩き始めている事実を鮮明に伝えてくれる。この作品は、もっとも創造的な意味で、未来的なのである。
 真に創造的であるために、書き手は過去と未来とを架橋する存在にならなくてはならない。この作品の構造も自ずからそうなっている。読者は、原爆にまつわる「語られざる」事実を幾つも目にすることになる。
 たとえば、一九四五年以降、行方不明になった核兵器が「数発ではない」、ことが話し合われる場面もある。原子爆弾の製造をアメリカ政府に促し、マンハッタン計画の中心にいた物理学者レオ・シラードは、製造には賛成したが、予告なくこれを使うことには反対だった。それを中止させようとトルーマン大統領に書簡を送るが届かない。それが何であるかを知らない者が、広島と長崎に投下したのだった。
 科学者は、さまざまなものを作り出す。しかし、一度生まれたという事実をなかったことにはできない。科学の進歩とは、希望するものをどこまでも作り得るようになることではない。それは、「作る」ということに伴う脅威を自覚し、恐懼することだということを作者は静かに語ろうとしている。それを実際に用いる政治家が、同様であるのはいうまでもない。
 この小説では「マロニエ」の樹が、さまざまなものを象徴する存在として描かれる。平和とは何かをめぐって作者は、つぶやくようにこう語る。

わたしにとって平和の風景とは、世界各国からここを訪ねてきた人々が、マロニエの木陰に憩い、それぞれ過ぎ去ったいろんなことを思い浮かべ、物思いにふけりながら、ぽつぽつとことばをかわしている光景だ。

 象徴を何か特定のものに固定することは小説のいのちを損なうことになりかねない。だが、その複数ある意味のあらわれのなかに死者たちの存在があることは疑いをいれないと思った。
 生者たちだけでは平和を作り出すことはむずかしい。賢者のように語るキッシンジャーも、涙するトランプもそこに、力はない。平和という奇跡を実現しようとするとき、私たちは、亡き者たちの助力を仰ぐべく、小さきものにならなければならないのだろう。