三島由紀夫 ふたつの謎

三島由紀夫 ふたつの謎

著者:大澤真幸

近代日本が生み出した最高の知性が、なぜこれ以上ないほど「愚か」な最期を選んだのか?
そして、「究極の小説」を目指して執筆した最後の長編『豊饒の海』のラストは、なぜ支離滅裂ともいうべきものになったのか? 
1970年11月25日、三島は市ヶ谷駐屯地に向かう前に、編集者へ『豊饒の海』の最後の原稿を渡すよう準備を整えている。つまりこのふたつの謎には何らかの繋がりがあると考えるべきなのだ。
だが、これまで誰もそれを「合理的」に説明できていない。あの日、作家の内部でいったい何が起きていたのか?日本を代表する社会学者が、三島の全作品を徹底的に読み解き、文学史上最大の謎に挑む!

ISBN:978-4-08-721055-2

定価:1,034円(10%消費税)

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【書評】テクストの事件性へ誘う

高澤秀次

 三島由紀夫問題は、今なお未解決である。本書はこの大前提から出発する。そして、著者は三島をめぐる「ふたつの謎」を、冒頭に仕掛けるのである。
 ひとつは一九七〇年十一月二十五日、市ヶ谷陸上自衛隊駐屯地(当時)での自決の謎。もうひとつは、同日に擱筆を明記されている、遺作『豊饒の海』の「破壊的な結末」との符合にまつわるものだ。
 大澤真幸は、徹底して論理的かつ真摯にふたつの謎に迫る。問題の遺作から遡行して、『仮面の告白』、『金閣寺』、『潮騒』、『鏡子の家』といった主要作品、処女作「花ざかりの森」や「憂国」、戯曲作品、果ては「博覧会」のような殆どノーマークの作品まで次々に召喚され、テクスト論的に謎の解明に動員される。
 参照文献も半端ではない。三島の友人だった奥野健男の評伝から、近いところでは松浦寿輝や平野啓一郎の論考まで、あるいはジジェクもデリダもドゥルーズも、その特命を背負って登場する。
 だが読者は、ここで大澤が首尾よく「ふたつの謎」を解決したなどと簡単に考えない方がよい。謎解きは凡庸な探偵に任せておけばいいし、これからもしたり顔のへぼ探偵は後を絶たないだろう。
 だが、それは決して批評家の仕事ではない。まして第一級の社会学者・大澤真幸は、無免許運転のにわか批評家などではない。
 その実績は、本書の先行作品「三島由紀夫、転生の破綻――『金閣寺』と『豊饒の海』」(『近代日本思想の肖像』所収)によって、すでに証明ずみだ。
 では、「ふたつの謎」はどう処理されたのか。とりあえず、最良の形でその輪郭を確定され、これまでになく深められたと言っておこう。
 言うまでもなく、批評の使命とはテクストに仕込まれた謎を、作家の無意識領域にまで踏み込み、協働で深めることなのだ。
 しかもここでは、作家三島由紀夫の自決という自己破壊行動と、『豊饒の海』の純テクスト的に「破壊的な結末」が、十一月二十五日という硬い結び目を強調されつつ、縦横に解きほぐされてゆくのである。
 改めて言うと、三島問題が未解決なのは、柄谷行人の指摘のように、その衝撃的な死が、返済不可能な「贈与」としてあったからだ。本書は、それに対する周到かつ緻密な返済の実践的プログラムと言ってよい。その野心的な試みは、本書を手に取った読者を、三島のテクストの事件性へと誘わずにおかない。
 では、テクスト上十一月二十五日と明記された擱筆の時点で、一体何が起きたのか。作品第四部『天人五衰』で、全篇に亘る狂言回し本多繁邦が、皇族の婚約者でありながら、第一部の主人公・松枝清顕の子を宿し出家、その後奈良・月修寺の門跡となった綾倉聡子を、老体に鞭打って訪ねるも、彼の記憶にある過去を全否定され、茫然自失で放置されるという、あり得ない結末が待っていた。
 大澤はあえて言及していないが、『豊饒の海』は十一世紀の王朝物語『浜松中納言物語』を、物語的な大枠として借用している。といっても、やんごとなき筋との婚約が確定している「大君」との間に、密かに不倫の子を儲けた(大君は出産、出家)「中納言」という筋立てと、その亡き父の「輪廻転生」の物語枠のみであるが。
 三島由紀夫が果たしてどの程度、「輪廻転生」なり大乗仏教の「阿頼耶識」について理解が行き届いていたかは、この際どうでもよい。
 ただ大澤が精確に言い当てているように、「仏教にとっては、輪廻転生は克服の対象」であり、「解脱とは、輪廻転生からの解放、輪廻転生からの救済を意味している」。
 脇に三つの黒子のある人間の輪廻転生など、三島にとっては目くらましに過ぎなかっただろう(後に中上健次はそれに倣い、胸に旧満州国の形をした青アザの持ち主たちを追う『異族』に取りかかるのだが)。
 それよりも読まれるべきは、例えば『金閣寺』の主人公による放火と、三島の蹶起割腹自殺を擦り合わせてゆく、スリリングな解読である。
 そこには、美の対象に、あるいは「愛そうとする他者に到達できない」、優れて三島的なアポリアへの粘り強いアプローチがある。
 この意味で本書は、「イデアとしての金閣」に正対し、否定的媒介としての「破壊」行為を通じての「到達」を示唆していた自身の旧作を、理論的ベースにしている。
 永遠の謎である三島と天皇の関係についても、熟考を促す。この言葉を著者は引いてはいないが、晩年の三島が擬装的に自己同一化した「恋闕」の信条とは、端的に到達できない「天皇」という憧れの対象への恋情のことであった。
 だがしかし三島は、純情可憐な天皇主義者などでは決してない。では、「文化概念としての天皇」(「文化防衛論」)はダミーだったのか。それにしても、三島ともあろう者が何故あのような愚行を……。
 だからこそ、大澤が顕在化させた「ふたつの謎」、死に至る行為と、テクスト的な死(=「破壊的な結末」)を招き寄せた、一九七〇年十一月二十五日という日付の符合が、斬新にして豊かな謎として今、ここに鮮やかに甦ってくるのである。
 最後に本書を一読してのある感慨を、書き留めておこう。
 評者にとって三島由紀夫とは、まず焼け跡の記憶を残すキッチュなアプレゲール世代の旗手(=貴種)であり、美空ひばりや力道山、初代・若乃花と横並びの輝かしい戦後復興期のスターだった。
 三島が生涯、丹精を込めて世に送った作品群は、本物よりコストのかかる偽金でなかったろうか。
 遺作の「破壊的な結末」は、だから偽金作りの廃業宣言にも等しく、いかにも三島的に律儀な結末だったと思う。