Matt

Matt

著者:岩城けい

日本から移住してはや5年。父と二人、オーストラリアに暮らす安藤真人は、現地の名門校、ワトソン・カレッジの10年生(16歳)になった。
Matt(マット・A)として学校に馴染み、演劇に打ち込み、言語の壁も異文化での混乱も、乗り越えられるように思えた。そこに、同じMattを名乗る転校生、マシュー・ウッドフォード(マット・W)がやってくる。
転校生のマット・Wは、ことあるごとに真人を挑発し、憎しみをぶつけてくる。
「人殺し! おれのじいさん、ジャップに人生台無しにされたんだ! 」。
第二次世界大戦、日本とオーストラリアの、負の歴史。
目をそむけてはならない事実に、真人──マット・A──は、自らの“アイデンティティ"と向き合う。

ISBN:978-4-08-771164-6

定価:1,540円(10%消費税)

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【書評】〈おまえ自身が嫌い〉という理解

岡英里奈

 年齢、学歴、職業、性別、既婚/未婚──誰もが何らかの社会的役割を持っている。それらはお互いの理解のきっかけになるかもしれないが、それだけを重視すると本当の理解から遠ざかってしまう。〈平等〉や〈多様性のある社会に〉という理想があちこちで先行しているけれど、同じ役割同士でもお互いのことはよく分からない。役割が違えばなおさらだ。理想と現実のギャップは甚だしく、本作の主人公、マットのようにその間で悩む者も多くいる。
 前作『Masato』は、父の転勤で安藤一家がオーストラリアにやってきたばかりの頃の物語だ。現地の小学五年生に転入した安藤真人(オーストラリアでの通称は「マット」)はいじめっ子に「スシ!」と囃されるなど、クラスメイトとの間に壁を感じていたが、少しずつ友人ができ、演劇で自分の居場所を得た。本作はその続編である。ハイスクールの十年生(十六歳)になり、言語の壁を乗り越えた真人に新たな障害が立ちはだかる。それは〈出身〉だ。転入してきたダーウィン出身のマット・Wは「おれのじいさん、ジャップに人生台無しにされたんだ!」と、第二次世界大戦中の日本人のダーウィン奇襲攻撃を理由に真人に強く当たるが、彼と関わりを持ちたくない真人は沈黙し続け、反論もしない。
 そんなある時、マット・Wが「ジャップなんか害虫だ、A-Bombでみんな死ねばよかったんだ!」と暴言を吐き、彼らは傷だらけの大喧嘩をする。演劇の授業を担当するキャンベル先生は「無関心は最大の罪だ」と真人たちを叱る。「ジャップ」と一括りにするマット・Wの無関心と、話してもどうせ理解されないからと黙り続ける真人の無関心。知ろうとも、知ってもらおうともしなければ、暴力でしか関わり合えない。そこに「人間らしさ」はない。では、どうすればいいのか。作中の演劇や英語の授業に、その手がかりが示されている。
 演劇の授業で真人たちのグループはゴールド・ラッシュをテーマとしている。真人は中国人金鉱夫を、マット・Wはイギリス人金鉱夫を演じることになっていたが、例の大喧嘩の後、キャンベル先生は二人の役を入れ替えて演劇の稽古をさせる。劇中の「イジメラレ役」と「イジメ役」の視点を一度ひっくり返し、その上、顔全体を覆う白マスクをつけて演じてみることになる。マスクをしなければ、真人にとってのマット・Wは〈日本人というだけで責めてくるオーストラリア人〉だし、マット・Wにとっての真人は〈じいさんが言ってた最低なジャップ〉のままだ。現実の役が邪魔してきては、他の役にはなれないだろう。しかし、マスクをつけることで、真人はフラットな視点に立ち、役にラクに入ることができた。マット・Wとの境目が薄まり、「おれがあいつで、あいつがおれ」になったようだと彼は感じる。一方、マット・Wの演技はぎこちない。顔が隠れているにもかかわらず、彼には真人が「ジャップ」にしか見えない。本物の日本人の真人を目の前にしても、祖父から聞いたジャップ像しか見えてこないのだ。偏見や先入観は無関心の一つだ。それらを捨てたまっさらな瞳で人間を見ることが「人間らしさ」に繫がっていく。
 本作では第二次世界大戦中のナチスのユダヤ人虐殺も重要なテーマになっている。収容所から生還したエリ・ヴィーゼルの『夜』を真人たちは英語の授業で学ぶ。『夜』の中には「指揮棒を左右に動かす」だけで他人の生死を簡単に決めるメンゲレ博士など、冷酷な人物たちが描かれている。その一方で、「理不尽な暴行を受けた」エリエゼル(エリ・ヴィーゼル)のために、「命の危険を冒して」ドイツ語で声をかけたフランス婦人など、「人間らしさ」を忘れない人物も登場する。真人は『夜』についての英語の論述試験の際、心の中にいる「もうひとりの私」に「これが人間のすることなのか」と問いかけられたかどうかが両者を分けたと述べる。〈あの国の人はみんな同じ〉〈自分はこういう役割だから、しょうがない〉。こういった思考停止には「これが人間のすることなのか」という問いかけがない。自らの役を妄信すれば〈自分が何者か〉という難題を考えなくて済むが、それはやがて一方的な暴力を生む。
 真人は日本人の役にも、オーストラリア人の役にも流されない。〈生徒〉や〈子ども〉にもなりきらず、学校や親の言葉を鵜呑みにしない。常に不安定な立場に立ち、「なんだかなぁ……」とたった一人で自問自答し続ける。そうして役を一つずつ剥がしていくと、世界に一人しかいない弱い人間が残る。それだけ役は個々の人々を守り、また、本当を隠している。真人は自分自身であることの難しさについて「おれだって、今まで、何度、だれかの言うこと聞いてみたいと思ったかわからない」と揺らぎながらも自分で考えず生きるのは「死んでるみたい」で嫌だと語る。様々な役に引き裂かれる痛みに耐え、本当をさらす彼は、他者の本当もよく見抜く。
 一般の青春小説の場合、対立には明快な友好的解決が与えられることが多いが、岩城氏は分かりやすい結論を出そうとしない。おまえが「何人だろうが」嫌いだ、と真人がマット・Wに告げる場面が印象的だ。国籍という役割を剥がし、一人の人間として「おまえが大嫌い」と言い切る真人の姿は、〈相互理解〉を掲げただけで分かり合える気になっている大人たちより人間らしい。カテゴライズ化は視野を狭めて個性を排除するが、真の理解はたとえ「嫌い」に繫がろうとも慈しみに満ちている。
 彼らの対立は決して他人事ではない。日本人同士でも、役割や立場が異なるだけで遮断して、一方的に理解を押しつけ合う出来事が続いている。本当の多様性が問われる今こそ、読むべき一冊であると感じた。