【書評】手のひらのなかの風船玉は
柴田元幸
この短篇集の目次を見ると、五篇のタイトルが並んでいて、それぞれの下に「チベット」「台湾、九份」「日本、京都」「インド、コーチン」「マレーシア、クアラルンプールほか」と地名が付されている。
英語文学の翻訳者としてもアジア、アフリカ系作家の訳業が多いこの書き手らしく、西洋以外のところに主として目を向けた作品であろう、とまずは予想できる。
と同時に、アジア各地の現実を気後れなく活写した、場所の音や湿気や匂いがガンガンムンムンプンプン伝わってくるものではないであろうことは、『鏡のなかのアジア』という書名からやはりある程度予想できる。
もちろん、場所の実感が随所でそれなりに伝えられはする。どの作品にも、場所をめぐる印象的な描写がかならずひとつはある──
このあたりの家々は、ひじょうに独特な技法によって建築されている。石を組んで作った壁に、木で骨組みをして、針金を渡したところにfeltで屋根を葺く。布の屋根なので水が漏らぬように、瀝青を塗りつける。家々は、だから上から見ると真っ黒な屋根をかぶっている。雨の多い所がら、瀝青はこまめに塗り替える。(「jiufenの村は九つぶん」)
が、場所の実感というかリアリティというか、そういうものを定着させることに語り手そして/または書き手はそれほど熱心なようには思えない。右に引用した一節に盛り込まれた英単語や英語ルビにしても、土地の空気をより生々しくするために使っている感じはしない(どの作品でもアルファベットはたびたび用いられるが、その使い方は一様ではなく、情報を提供しているというよりは謎めいた奥行きを与えているように思える)。台湾なりマレーシアなりについてこっちがなんとなく持っている先入観が否定されるわけではないのだが、さりとて強化されるわけでもない。作者は土地の代弁者でも応援団長でもあろうとしていない。場所の現実感をまっすぐ積み上げていくことに、いつもどこかためらっているように思える。見ようによっては、いつも少し不真面目なようにも思える。そう思って読むと、右の一節もどこかホラ話めいているように感じられないだろうか。
あるいは、こんな文章──
以来灌木の切れや石ころに、彼は話しかけるようになった。石ころは頭しかなかったけれど、頭があるということは大事で、頭があれば声も聞こえるし、考えることだってできる。彼は自分の考えたこと、見聞きしたことを話してやり、集落で手に入る書物の、読める部分を読んでやるなどした。経文はもちろんのことだった。信仰の深いこの地では、どの家にも、どの場所にも、かならず経文はあるのだった。空には五色の風の馬が、やはり悠々とはためいていた──。(「……そしてまた文字を記していると」)
「頭があるということは大事で」という箇所が僕にはとても面白い。想像力の大切さを暗に伝えている象徴的な物言いのようにも思えるし、単にホラ話、論理の飛躍と見る方が正しいような気もする。経験的にしか言えないが、こういうどっちつかず感のある言葉の方が、ひたすら雄弁に象徴的な言葉より「効く」気がする。この人の書くものにはいつも、言葉で世界を分類し整理することへの懐疑があると思うが──まともな書き手ならそりゃ誰だってあるだろう、と言われそうだが、まあそこは程度問題で、この人の場合にはそれがたいていの人以上に前景化されている──この短篇集ではその懐疑が、こうしたユーモアを伴ってとりわけ楽しく実演されているように思える。トッピング的つけくわえとしてのユーモアではなく、世界はそもそも筋が通らないのだけれどそれを憤っても始まらないと腹をくくったところから自ずと出てくるように感じられる、ジョゼフ・コンラッドやレイモンド・チャンドラーにも通じるユーモア。目下の最新作「藁の王」〔『新潮』二〇一丷年六月号〕のようにシリアスな問題を突きつけてくる作品がある一方で、こういう、どこまで真面目なんだかよくわからないなかで独特の切実さを帯びたものも書いているところが素晴らしい。
で、こちらとしては、こういう感じでおしまいまで通してくれていっこうに構わないのだが、しかし、最後に収められた、本書で最長の一篇「天蓋歩行」は、そのさらに向こうまで連れていってくれる。かつて木であった人物──というか、いまでも本当は木なのだが人間の男の形をしばし帯びている存在──を核にして、物語は自在に時空を移動しつづけ、ホラ話めいたさまざまなイメージはいつしか、ホラっぽさを残したまま圧倒的な美しさを獲得する。引用したい箇所は数多いが、たとえば──
手のひらのなかの風船玉は、記憶の顔、あの雨後に生え出す茸のようだった。白く粘り、透明になり、急にふくらんだかと思えば弾けて幾つにも枝分かれする。それらの顔のなかに私は、無力な幼木だったころの自分の姿を見た。その幼木の見ている夢もまた、たちまちのうちに海月に似た海綿質の顔を持ち、そこに閉じ込められているのはひとりの子どもなのだった。暗い屋敷の内側で、いまだ訪れない運命をすでに予感するかのように泣いている。緑色の宝石を敷き詰めた丘に嫁ぐことを知っているかのように。そこでは、過去が現在を夢見ていた。過去の内側に潜ってゆけば、その果てには現在が、あるいは未来があるのだった。それは広がりとしてではなく、何かの弾みで壊れるような、脆く、けれど菌類の自在な組織のように柔軟な、内と外との容易に反転する入れ子のようなものだった。
「それは広がりとしてではなく……内と外との容易に反転する入れ子のようなものだった」という最後の一文は、こういうものを私は書きたい、と多くの人が願うようなイメージが見事に言語化されていると思えるし、谷崎由依はこの本で、まさにそういうものを書いたのである。