日の出

日の出

著者:佐川光晴

明治の終わり、13歳の清作は、徴兵から逃れ故郷を飛びだす。
北陸から九州、そして横浜へと逃れながらも、
鍛冶職人として生きる清作を、数々の試練が襲いつづける。
一方、清作を曾祖父にもつ現代の女子大生・あさひは、
教職免許のために猛勉強中だった……。
時代をへだてたふたりの希望の光が、小さく輝きはじめる。
著者待望の長編小説がついに刊行。

ISBN:978-4-08-771140-0

定価:1,760円(10%消費税)

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【書評】目を逸らしてはいけないもの

大矢博子

 自分が見ないふりをしてきたものを、容赦なく、けれど優しく、突きつけられた気がした。佐川光晴『日の出』である。
 物語は、明治四十一年の石川県小松市から始まる。
 十三歳の中学生・馬橋清作は生来の気の弱さに加え、父親が日露戦争から帰還直後に急死したこともあり、徴兵逃れを画策する。町の有力者の息子で三つ上の先輩・浅間幸三郎の助けを借り、出奔。岡山県美作の鍛冶屋に匿われ、そこで鍜治職人となるべく修業に励んだ。
 職人としての腕も立つようになった頃、兄の追っ手が近くまで迫っていることを知り、筑豊の炭鉱地帯へと移る。さらにそこから川崎へ……と、十年以上に及ぶ清作の逃避行が綴られる。
 明治から大正にかけての清作の物語と並行して、清作の曾孫であるあさひの物語が語られる。こちらは現代が舞台だ。
 社会科教師を目指す大学生のあさひは、母の伯母が浪曲の曲師だったと知って興味を持つ。その大伯母のことを調べる過程で知り合った浪曲好きの男性と恋をしたり、教師として就職し生徒と向き合ったりという日々が描かれる。
 とくれば当然、このあさひが曾祖父の清作のことを知って……と予想するのだが、そうはならないのが面白いところだ。ふたつの物語はクロスするわけでもないし、あさひが清作の生涯を知ることもない。なのに、この曾祖父と曾孫の人生がシンクロする。ここが読みどころだ。
 キーワードは〈朝鮮〉である。
 日露戦争後、日韓併合で多くの朝鮮人労働者が日本に来た。彼らは低賃金で危険な炭鉱や工場で働くことになる。清作は炭鉱の鍛冶小屋で働いているときにそれを知り、とある事件をきっかけに、朝鮮人女性の姜香里とともに川崎へ逃亡、朝鮮人街に隠れ住んだ。その過程で、朝鮮から来た彼らが日本でどのような暮らしをしているかが、つぶさに描かれるのだ。
 一方、あさひは中学時代、在日コリアンの転校生に出会ったのをきっかけに社会科教師を目指すことに。教師になってからは、韓国人の生徒がいるクラスで領土問題の授業をすることの難しさに直面したり、恋人の姉が在日コリアン三世とつきあっていることに父親がいい顔をしないという話を聞いたりもする。
 はっきり書いておかねばならないのは、だからといって本書が声高に国籍差別云々を主張するものでは決してない、ということだ。片方の立場に立ってもう一方を断罪するのでもなければ、こうあるべきだと結論を押し付けるのでもない。
 佐川光晴は淡々と、清作の逃避行の様子を綴る。あさひの仕事や恋愛を綴る。日露戦争後の日本で、大正時代の日本で、関東大震災後の日本で、清作が生きていく上であたりまえに出会うもの。現代の日本で、あさひが教師として働くとき、結婚を考えるとき、あたりまえにそこにあるもの。その時代に生きる者として、否応無く目の当たりにするそれをどう考えるか、目の前の人にどう向き合うかを、佐川光晴は丁寧に描いていく。差別問題を描くために清作やあさひがいるのではない。清作やあさひの人生を描くには、避けて通れない厳然たる現実として〈朝鮮〉があるのだ。
 今、ヘイトスピーチを巡る問題やSNSでの差別発言、扇情的な嫌韓本のタイトルなどを目にしない日はない。それらを聞いたり見たりすると心が荒む。だから耳を塞ぎ、目を閉じてしまう。ヘイトに自分が与することは断じてないが、差別が嫌だからという理由で、私はそこにあるものを〈ないもの〉としてきたのではなかったか。あらためて考えさせられた。
 本書には、どのような事情で朝鮮の人々が日本に渡ってきたのか、太平洋戦争のあともなぜ日本にとどまったのかが書かれている。それは歴史の問題だ。だが清作やあさひにしてみれば、それらは同時に〈個〉の問題である。清作が一緒に暮らした香里の歌声。匿ってくれた洪さんの知恵と笑顔。朝鮮人街に銭湯を作ったり、屑鉄から作った包丁が売れて喜んだりした、今一緒にいる人たち。あさひの中学時代、一日しか学校にこなかった崔さんの表情。日本の教科書に納得できない文くんの抵抗。
 今の日本にいるたくさんの崔さんや文くんは、百年前の香里や洪さんの末裔だ。本書は清作とあさひの人生がシンクロするのが読みどころ、と書いたが、シンクロすること自体に問題があるとも言える。百年経っても変わっていないということなのだから。清作とあさひの〈個〉の問題を通し、読者ひとりひとりもまた自分の〈個〉の問題として考えずにはいられない。目を逸らすな、と言われている気がした。
 徴兵逃れで追われている清作が、炭鉱で死んだことにして別人になって生きたらどうかと提案される場面がある。だがどうしても馬橋清作という名前を捨てられず、彼は辛い逃亡の道を選ぶ。これは、日本名を強制された歴史を持ちながら本名を名乗り続ける在日コリアンの人々の矜持にも通じる話として、私は読んだ。
 また、日本人女性は日本人男性から、朝鮮人女性は朝鮮人男性から、女に教育はいらないと言われる場面もある。国籍だけではなくこういった差別も、現代に至るまで連綿と続いているのだ。
 なお、清作の出奔を助け、彼の人生の転機に何度も立ち会う浅間幸三郎は、著者の祖父をイメージしたものだという。移民としてチリに渡るのも祖父のエピソードだそうだ。
 つながっている、という思いを新たにする。著者が祖父とつながっているように、あさひが清作とつながっているように、私たちひとりひとりが、明治の、大正の、あの頃の人々とつながっている。歴史から目を逸らすことは、自分から目を逸らすことに等しいのである。