共感のレッスン 超情報化社会を生きる

共感のレッスン 超情報化社会を生きる

著者:植島啓司+伊藤俊治

私たちは、かつてないほど「情報」に取り囲まれて生きている。LINEやTwitterが日常になり、コミュニケーションの有りようは劇的に変化した。さまざまな個人情報が、本人が自覚することなくネットを通じて集積され、それによって人が無意識のうちに規定される事態さえ生じている。だが、それで私たちは豊かになっているのだろうか。情報に取り囲まれることで、却って人が孤絶する事態が生じているのではないか? 人類学や生命科学などの知見を踏まえ、身体性に基づいた「共感の知」の必要性を説き、コミュニケーションの本質を論じる刺激的な対談。

ISBN:978-4-08-771127-1

定価:1,650円(10%消費税)

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【書評】高級な対談

養老孟司

 ずいぶん高級な対談だなあ。読み始めてそう思った。ふだんこういう「高度な」会話はできない。具体的には身体や脳、自己、共感などについて語る。科学もあるし、文学も映画もある。でも要するに現代社会の前提が問題になっている。ちゃんと読めば、たいへん面白いし、重要なことを伝えている。
 著者の伊藤さんとは、直接にお話ししたことがない。ないと思う。植島さんにはときどき会う。でも真面目な話はしない。植島さんから聞いて面白いのは、賭け事の話である。競馬、競輪、競艇、それぞれどういう特徴があるか。そんなこと、植島さんじゃないと、教えてくれない。植島さんと一緒に麻雀をしたこともある。だから私は植島さんを賭け事の大先生だと思っていた。
 その植島さんが、いきなり免疫の話から始める。これなら私の分野に近いじゃないか。でも私は解剖学で、免疫学とは食い合わせである。なぜなら免疫は眼に見える形がない。胸腺は免疫学では大切な臓器だが、解剖学ではフロクみたいなもの、私が学生だった頃は、胸腺の存在意義はほぼ不明だった。子どもではともかく、大人になると、胸腺にはあまり意味がなくなるんですね。
 しかもニコル・ルドワランである。忘れもしない、私が東大医学部の助教授だった頃、この人が東大に来て、ウズラとニワトリの胚の移植実験の手技を見せてくれた。私の恩師、中井準之助先生がこの種の研究が好きで、ルドワランを招待した。私はこういうエライ外人が苦手で、なんとなく逃げ腰だったから、恩師が私をニコルに紹介してくれた際に、私のことを「うちのdissociate professorだ」と言った。なんとなくディスコミュニケーションを思い出しませんか。恩師の中井準之助先生は偉い人で、私の心理をちゃんと察しておられたのである。
 その次に思い出すのは、多田富雄さんである。神経系の自己と、免疫系の自己という主題で、あれこれ話した覚えがある。中村桂子さんも絡んでいたような気がする。その時にあんたはカマキリを思い出させると、多田さんに言われてしまった。虫が好きということもあるけれど、隙があれば、パッと襲いかかるという意味ではなかったか、と思う。
 この対談の話題は多岐にわたる。でも主題は一貫していると思う。乱暴にいってしまえば、近現代の理性主義に対する批判。そこから当然、身体の重視、自己の解体、最後には生まれ変わりの話にまで行きつく。さらに人と人とのつながりという主題があって、それが共感やミラー・ニューロンの話になる。
「我々は『わたし』と『わたしでないもの』というフレームでは、何も理解できない地点に来ていることを自覚しなければならない」。最後に植島さんはそう言う。まったくその通りなのだが、多くの人が本当にそう思っているか。思うわけがないですよね。アメリカ人なら「自己という主体が存在し、主体が選択を繰り返すことによって人生が成立する」と思っている。現代日本社会の公式の前提も、当然アメリカ流である。ただし本気で考えたら、アメリカ流を信じる日本人はほとんどいない。実情はなにしろ空気で忖度ですからね。現代日本人の暗黙の本音と、新聞やテレビ上での一般的な言説が示唆するタテマエは、いわば百丷十度食い違っている。そう私は思っている。だから植島・伊藤対談が成立するのである。
 突然のようだが、環境省を見ればわかる。環境とは「自分を取り巻くもの」で、それなら環境省があるということは「自分」があるということで、つまり国が「自分」という存在を官許したことになる。自己中が増えるのも、無理はありませんなあ。田んぼで稲が育って、そこでできた米を自分が食べる。米が自分になる。だから田んぼは将来の自分の一部だが、そんなこと、いまの若者が実感しているはずがないでしょうが。田んぼは田んぼだろ、俺は俺。以上終わり。じゃあ、その俺の内容とはなにか。ことの始まりは〇・二ミリの受精卵。覚えてないでしょうが。でもそれもあなた、つまり自分なんですよ。元をただせば、一ミリにもならない卵。それが二十年で何十兆という細胞の集団になって、その中に脳が生じて、あれこれ言う。本当にあれこれ言いますなあ。元は一ミリにもならないくせに。
 自己はいまでは当然だが、仏教ではよく無我という。確かに私は「ある」が、その中身はなにか。デカルト座標には原点がある。二本の直線がそこで交わる。原点は確かに存在するが、中身はない。点ですからね。私はそれを「空」と呼ぶことにしている。
 意識の中の自分も、多分それと似たようなもの。なぜかというと、自己とはナビの矢印だからである。矢印がないナビは使えない。動物は世界を動き回るので、ナビが必要である。そこにはその動物なりの世界地図と、現在位置を示す矢印つまり自分が入っている。この矢印を消すと、何が起こるか。世界地図全体が「自己」になる。それを世界あるいは宇宙との一体感という。
 そんなことは対談で言っていない。でも読んでいるうちに言いたくなってしまった。ことほど左様に、あれこれ考えてしまう対談である。あんまりあれこれ言うと、ボクも対談に混ぜてくださいということになりかねないから、この辺で止めておく。でもゆっくり読んでくださいね。12章あって、それぞれについて考えるだけで、一年潰れるかもしれませんよ。