いとも優雅な意地悪の教本

いとも優雅な意地悪の教本

著者:橋本治

上質な意地悪が足りないから、日本人は下品になった。
夏目漱石から舛添要一、メリル・ストリープまで。身につけておきたい「嗜み」としての意地悪論
意地悪は単なる悪口や暴力とも違って、洗練を必要とする「知的かつ優雅な行為」である。だからこそ、意地悪には人間関係を円滑にし、暴力的なエネルギーを昇華させる効果がある?
他者への罵詈雑言やヘイトスピーチといった、むきだしの悪意が蔓延する現代社会。橋本治は、その処方箋を「みなが意地悪になること」だとして、古今東西の例を挙げてその技術を具体的に解説する。
読めば意地悪な人になりたくなる社会・文芸評論!

ISBN:978-4-08-720899-3

定価:836円(10%消費税)

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【書評】意地悪のすすめ

藤野千夜

 秘書に暴言を吐いた国会議員の謝罪会見を見ながら、この原稿を書いている。
 このハゲー! ちがうだろー、と叫ぶように叱責するその議員のことが週刊誌に報じられ、同時に音声データまで公開されたのは、三ヶ月ほど前になるだろうか。密室ゆえについ本性を見せる人も多いという車内、いくら秘書に運転ミスがあったにしても、たとえその日までにどれだけひどい業務上のミスが重なっていたにしても、とても正当化できない、脅迫的な暴言なのは間違いない。
 もちろん、そのあまりに激しい口ぶりと、手を替え品を替え、相手の人格を否定しつづける執拗な攻撃が面白すぎたため、メディアにさんざん取り上げられ、いじられ、笑われ、すっかり本人の人格が否定される結果となったのは自業自得というもの。おかげで立派な公人の裏の顔をたっぷり知ることとなって、最初の数日でいささか満腹気味になったとはいえ、私のような市井の身には、やはり痛快にも思えたのだった。
 さて本書では、そういった暴言、言葉を含めた「暴力」に対峙するものとして「意地悪」を挙げる。
 著者はいとも優雅に、その「意地悪」をあやつる橋本治氏だ。しかも大変親切なことには、読者が肝心の「意地悪」ポイントを見逃したりしないよう、言説のあとを括弧でくくり、【こういうはぐらかしが、意地悪です】などと、いちいち知らせてくれるといった念の入れよう。
 私はどちらかと言えばリベラルな家庭に育ち、自分の考えを頭ごなしに否定された記憶がほとんどない反面、日々ちくりちくりと嫌味を言われることには慣れて暮らした者だからだろうか、ところどころ、まるで母親と話しているような懐かしい気持ちになりながら読んだのだけれど、もちろんそれは『桃尻娘』シリーズや、『ふしぎとぼくらはなにをしたらよいかの殺人事件』『S&G(サイモン&ガーファンクル)グレイテスト・ヒッツ+1』といった橋本氏の小説や、『花咲く乙女たちのキンピラゴボウ』といった評論、エッセイやコラムを、十代から二十代にかけて、繰り返し読んだ記憶を持つからかもしれない。
 ともあれ、「暴力」と「意地悪」を対峙させた氏の言説はとても愉快だ。
 曰く、「暴力はただのバカだが、意地悪はそうじゃない」。
 直接に怒りをぶつける「暴力」よりも、頭を使って遠回りをする「意地悪」のほうが、「邪悪になることを抑える、和らげる」といった効果を持つ。ならば学校で悪口を教え、意地悪教育をするべきではないか、すればいいのに、という本書こそ、きっとそのための優れた教科書になることだろう。
「自分は社会の本流に属している」「自分は主流だ」と思っている人ほど、意地悪をせずに暴力をふるう、という指摘も鋭い。現代は自己申告で自分を「本流」と思うことのできる社会だから、みんなが「暴力的になる下地は出来上がってしまった」とも本書は言う(先の国会議員の場合、本流の者として瞬間的に暴力的になる一方で、迂遠にねちねち秘書を攻撃する頭のよさも見せたものだから、音声データを聞いた人の多くが、怖さと同時に不気味さを覚え、それがおかしみにも転じたのではないだろうか。もしどちらか一方であれば、怖いくらい、と前置きはつくにしても、短気な人、または嫌味な人、で終わったかもしれない)。
 全八講に分かれた本書はまた、多く実例を引いて、ソフィスティケートされた「意地悪」のあり方を考察する。
 たとえば第二講では、映画『プラダを着た悪魔』で一流女性ファッション誌の敏腕編集長を演じるメリル・ストリープの、「よく聞くと悪口」といった高等な意地悪を分析。朝、コーヒーを買ってくるはずの新人部員がもたもたしていると、出社したメリル・ストリープは「あら、私のコーヒーはどこ? 彼女は死んだの?」とさらりと言う。
 第三講では、樋口一葉『たけくらべ』の冒頭に秘められた、名所「吉原」を脇に置くいきなりの「啖呵」を読み解き、頭がよくなければ意地悪にはなれないことを説く。
 第四講で矛先は、ふいに前都知事、舛添要一氏のせこい政治資金問題へと向かい、そこから夏目漱石へ飛ぶと、赴任地、四国松山をディスりつづける『坊っちゃん』は、主人公のテンポのいい悪口がすべてだと断言する。
 第五講、紫式部の陰険さ、ことに「自分丸出し」な清少納言に対する意地悪っぷりにもわくわくするが、なんといっても素晴らしいのが、第六講「男と女はどっちが意地悪か」だ。
 ここで著者はまず男の嫉妬について考察するのだけれど、嫉妬というのは本来、同じステージの者に対して抱くはずのものなのに、男の嫉妬はそうなっていない。たとえば外見に関して、まったく勝負にならないブ男が、美貌の男に嫉妬するといった場面を見る。それはなぜか、という答えを橋本氏はこう書く。
〈二人が同じ「美貌」というステージに立っているからではなくて、もっと広い「男」というステージに立っているからですね〉
 なるほど、と膝を打ち、男ステージの勝手な高さに感心しつつ、相変わらずの慧眼にほれぼれしていると、
〈(中略)はたから見れば「どうして同じステージだよ」です〉
 とつづくので嬉しくなる。やはり橋本氏は、のらりくらりとして痛快。決して他にいない人だ。
「男と女、どちらが意地悪か」というベタな問いも、面白いのは女の意地悪だといなす。
 そういったいなし方が決して嫌いでないあなたにとって、本書はとにかく痛快で、愉快な一冊であることは間違いない。