【書評】図式的な理解と身体的な読書
清田隆之
本作には「ロミオとロザライン」「オセローとジュリエット」という二つの中編小説が収録されている。ここで描かれるのは、演劇を作り上げる過程とその人間模様だ。旬のイケメン俳優、大役に抜擢された新人女優、公演に起死回生をかける演出家、演劇と生活の両立に苦心するベテラン女優。そんな登場人物の関係性は、『ロミオとジュリエット』や『オセロー』の相関図とオーバーラップしている。
この男とこの女が恋愛関係にあって、こいつがこいつに嫉妬を向けるわけか。なるほど、ロミオにあっさり心変わりをされてしまったロザラインは、このベテラン女優の人生と重なるわけだな……。
と、シェイクスピアの原作とあまりに符合しているため、つい図式的に理解してしまう。しかし、その図式はどんどん変化し、更新されていくことになる。劇作家・鴻上尚史の手によって、登場人物たちの視点を次々と体感させられるからだ。
一人称のジュリエット、一人称のイケメン俳優、一人称の演出助手──。戯曲の言葉が俳優の身体を通すことで初めて立ち上がってくるように、この小説の言葉も、それぞれの内面に潜ってみることで初めて真意が見えてくる。作中では〈「立つ体」からは感情が、「座る体」からは論理が出やすい〉という演劇論が語られるが、平面的なキャラクターのように感じていた人物が突如〝人間〟として迫ってくる瞬間は、とてもスリリングだ。
中でも興味深かったのは、中心に立つ演出家の存在だ。一作目に登場する海藤弘毅は、ロザライン役の女優・麻川美香子と実生活では夫婦で、ジュリエット役の河合夏希とは不倫関係にある。妻への愛は冷め、我が子の声ももはやノイズにしか聞こえない。その罪悪感をロザラインの悲哀に仮託する姿は、中年男のみっともない感傷にも思える。しかし、背負わされている責任の重さ、右肩下がりの観客動員、扱いづらい芸能事務所、夫婦でバイトをしないと成り立たない生活といった景色を前にしてみると、若い女優に癒しを求める海藤の切実さが迫ってくる。
ところが──。その海藤自身は、頭の中にある図式を最後まで更新できない。変化と模索を繰り返す俳優たちに苛立ちと戸惑いを募らせていくばかりなのだ。そして、二作目の演出家・越智亮介もまた同じ穴にハマり込んでいく。これは全体を俯瞰する立場にあり、なおかつ身体を伴わずに戯曲と向き合う演出家が陥る構造的な罠なのかもしれない。論理はときに感情を飲み込む。自分自身の演出家である我々も、しばしばこれを体験している。