【書評】破れすぎて、急すぎて
佐久間文子
木下古栗炎上事件は記憶に新しい。
昨年、テレビのバラエティ番組「アメトーーク!」の「読書芸人」の回で、出演者の光浦靖子がおすすめの本の一冊として木下古栗『グローバライズ』を挙げたのだ。番組を見て、木下古栗がどんな作家か知らずに本を買って読んだ読者が「なんなんだこれは」と激怒。「買って損した」など☆一つの酷評を続々、アマゾンに投稿した──。
と、SNSで読んだ気がしたのだが、いま確認すると放映後についた☆一つのレビューは五つで、ぜんぜん「炎上」というほどではない。木下古栗という固有名詞と、うっかり読んで激しく怒っている読者の組み合わせがそれこそ古栗的小説世界を思わせ、記憶の中で話を面白く燃え盛る炎上にまで膨らませてしまったようだ。
「オーサーズ・オーサー」というと、たとえば小島信夫のような、玄人筋をうならせる作家の名前が思い浮かぶが、木下古栗はまぎれもなくこの、同時代の書き手の注目を集める作家の一人である。『グローバライズ』の帯に寄せられた、絲山秋子、柴崎友香、津村記久子、町田康といった作家たちの熱烈な推薦の言葉を見てもそのことはわかる。
スカトロジー、下ネタ、暴力の頻出、それらの爆発的なおかしみへの転化、視点の不可思議な移動、意外に端正な文章──などなど木下古栗の小説の特徴はいくつか抽出することができる。
新しい短篇集『生成不純文学』にもこれらの特徴は見出すことができる。題材を大雑把に挙げていくなら、「虹色ノート」は糞便、「人間性の宝石」は暴力、「泡沫の遺伝子」は飲尿、「生成不純文学」は暴力(と文学)となり、予備知識なしにすすめられて読んだ人が「なんなんだこれは」となるのもやむをえまい。
唐突ではあるが「序破急」という、物語の古典的な形式が思い浮かぶ。導入は割合静かで突然とんでもない方向に展開、え、それで最後はこれですか?
──というのが本当に「序破急」という形式に合っているかどうかわからない。「破」は破れすぎていて、「急」もあまりに急すぎる。それでもなにか、一種の形式美と呼びたいものが備わっているのも確かだ。
同時に、描かれているものの名づけ難さ、自分がつかまえた世界が本当にそうであるのか、確証の持てなさも大きな魅力である。〈人間同士が関わり合う、すれ違う諸相において、つかみようがないはずのもの〉(「生成不純文学」)がここに描かれている、と思える瞬間が何度もある。