【書評】最終兵器と大地母神
片山杜秀
三島由紀夫が小説『憂国』を発表して間もない頃。有島武郎の長男で、三島の芝居に出演することもあった名優、森雅之が『憂国』の感想をこう洩らしたという。「繰り返しが退屈だ」
『憂国』の筋書きは二段構え。新婚の陸軍青年将校が、二・二六事件への不参加を潔しとせず、前段ではこの世の別れに新妻と濃密に交わり、後段では荘厳に腹を切る。
情交と切腹。森雅之はこれを繰り返しととらえた。フロイトのエロスとタナトスである。男が女と昇りつめて果てる。そのあと男は刀を腹に突き刺し、ある種の陶酔境に昇りつめて果てる。射精と絶命。性のエクスタシーと死のエクスタシー。どちらも果てる瞬間に解放がある。性の陶酔の延長線上に死の陶酔がある。フロイトの見立てでは、同じ種類の欲動が次元を違えて発露するのが愛と死。とすると『憂国』は、結局は同じ二つの欲動を、共に微に入り細を穿って描写するから、しつこいということになる。さすが森雅之、と思った。
『美しい国への旅』を読んでいて、この『憂国』を巡る挿話を思いだした。性の世界と軍事の世界、性器の世界と武器の世界を二重映しにし、さらに後半の山場をエクスタシーの二枚重ねで締める。『美しい国への旅』は『憂国』と似る。でも森雅之の批判をすりぬけるように出来ている。エクスタシーにひねりがあって繰り返しにならない。これなら森雅之も面白いというのではないか。
『美しい国への旅』は、チェルノブイリや福島の原発事故、シリアやイラクや南スーダンの無政府的混沌状態、右傾化する日本の政治状況、『風の谷のナウシカ』の汚染された世界で戦う女という設定などを束ねたかのような物語。舞台は未来の日本。世界中が戦争らしい。しかも瞬時に決着する最終核戦争とは違って、ヴェトナム戦争やシリアの内戦のようにいつ果てるともなく続いている。日本の国家も社会も破壊されて無秩序に支配されている。『マッドマックス』や『北斗の拳』のようだ。野盗に襲われる小コミュニティが点在しているところは黒澤明の『七人の侍』か。核兵器が頻繁に用いられているのか、原子力発電所がしょっちゅう爆発しているのか、放射能汚染も深刻。マスクを用いないと外を歩けない。
そんな日本に、最終兵器を開発していた軍の研究施設が残っていて、司令官がなおもとどまっている。彼は、「田中文学」ではもはやおなじみのキャラクターと言える、睾丸風の垂れ気味の面相にしなびた男根風の鼻のついた右翼的な政治家。この司令官は性的不能者で、コンプレックスを転轍して、満たせぬ性欲を戦争で代償しようとし、日本をその方向に駆り立てたらしい。だが、それは代償行為として所詮中途半端。司令官はついに究極の代償行為を求める。自らの不能の性器そのものを最終兵器に改造して、「不能性器=最終兵器=司令官自ら」を発射し爆発させ光り輝かせ、日本の超絶的軍事科学技術を世界に披露することで愛国的エクスタシーを得ようとする。
そのための司令官の人体改造が研究施設で行われ、実はかなり完成の域にあったようなのだが、発射方法の明らかにならないまま、科学者たちは研究施設から消えてしまう。改造途中で、半ば生体、半ば機械化された司令官は『新世紀エヴァンゲリオン』でネルフの本部の地下にはりつけにされている第二使徒リリスを彷彿とさせる具合で、研究施設の巨大空間に宙吊りにされている。この司令官が『憂国』の青年将校と回数だけは同じく二度のエクスタシーを味わう。
どんなエクスタシーか。司令官には、自分本来の不能の性器とは別に、「人間界デ完璧ト思ワレル大キサト形ノ性器」を再現した人工性器が取り付けられている。その立派な一物を女が唐突に嚙みちぎる。阿部定のように。あるいは三島由紀夫の『音楽』にあらわれる鋏のイメージを地で行くように。去勢である。それは一般にはエクスタシーではあるまい。能力ある男性にとっての最大の恐怖。だが司令官はそこに陶酔を覚える。去勢は有能力者に対してこそ行われる。司令官はそそりたつ人工性器を切断されることで自らをそれまで不能でなかったかのように心底から錯覚し、忘我の境地に達する。去勢によるエクスタシー!
そして、続く第二のとてつもないエクスタシーが作品の更なる頂点を築く。第一のエクスタシーが司令官を最終兵器に変身させる隠された鍵であった。最終兵器は光り輝いて天空に上昇する。究極の破壊を世界にもたらすのか。しかしそこに止め女が出る。丘のように見える巨大な生き物というのだが、それはつまり巨大な女性の陰部、大地母神の性器であろう。地面から丘のようにせりあがる巨大な肉なのだからそういうものであろう。その丘が空を飛んで、司令官の最終兵器=光り輝く男根をしゃぶる。司令官=最終兵器=男根は射精して消滅する。兵器としての破壊のエネルギーは性的エネルギーに転轍され、第二のエクスタシーの中に浄化されて霧消し、大地母神もまた滅する。最終兵器と大地母神のエロスとタナトスの夢の跡から「黒い雨」が地上に降ってくる。だがその雨は放射能の雨ではない。放射能を浄める魔法の除染の雨である。
甚だしく歪んだマッチョイズムを、女の上の口と下の口によって嚙みちぎりしゃぶり尽くす。突撃する暴力としての父性=男根原理を、抱擁して無力化する母性=腟原理によって消してしまう。しかもそこには実は、無力化されずとも元々まだ無力な子供たちの、無力の力とでも呼ぶべきものが介在し、母性原理を発動させる決定的な助けとなる。つまりは女子供に男が退治される。かくて二度のエクスタシーが指し示す方向は『憂国』とまさしく正反対である。
父性への嫌悪。田中のかねてからのモティーフは『美しい国への旅』で一段と高められ、この時代への旺盛な抵抗心を示し、炸裂している。