模範郷

模範郷

著者:リービ英雄

何語でもない「ぼく」の記憶。
一九五六年、台湾。英語と中国語と台湾語が響き合う旧日本人街に、アメリカ人のぼくたちは住みついた──
日経新聞、朝日新聞、読売新聞各紙で大反響 越境文学の雄、新境地!

1950年代、6歳から10歳まで台湾にいた「ぼく」。日・米・中・台の会話が交錯する旧日本人街「模範郷」。そこは間違いなく「ぼく」の故郷であり、根源であった。何語にも拠らない記憶の中の風景が変わり果てたことを直視したくない「ぼく」は、帰郷を拒んでいた。だが知人の手紙を機に半世紀ぶりにかつての家を探しに行くことを決意する。越境文学の醍醐味が凝縮された一冊。
第68回読売文学賞受賞作。

ISBN:978-4-08-745850-3

定価:594円(10%消費税)

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【書評】言葉をめぐる旅

紅野謙介

 表題作のなかに印象的な場面がある。「ぼく」が台湾の五〇年前の自宅跡地を見つけたときのこと。「ここだった」という感覚が胸に上がり、突然、母親がずっと聞いていたレコードの甘い歌詞が甦る。「I give to you」そして「and you give to me」。そして「急に大人から平手打ちを食らった小学生のような泣き面」になった。言うまでもなく、MGMミュージカル映画『上流社会』(High Society、一九五六年)でビング・クロスビーとグレイス・ケリーによって初めて歌われたコール・ポーターの名曲「True Love」の一節である。
「ぼく」の記憶は、両親とともに台湾の台中で暮らした日本家屋につながっている。植民地から解放されたものの、中国の内戦に敗れた国民党軍が台湾を支配。アメリカ政府は共産主義化の防波堤として国民党の軍事政権を支えた。その政府に協力するのが父の役割だった。やがて「ぼく」は父の「姦通」場面を目撃し、両親は離婚した。「ぼく」の一家離散はその台中の「模範郷」にあった家に起源がある。一方、映画の『上流社会』は、離婚したクロスビーとケリーの金持ち夫婦がかつての愛を取り戻し、再婚するというおめでたい話だった。しかし、この曲をくりかえし聴いた母親に「真実の愛」はついに回復することがなかった。
 そのとき泣いた「ぼく」の背中を、三〇歳も下の弟子でもある作家の温又柔がなでる。「すみません、お母さんの五十年の淋しさを、急に、とぼくが言いかけた」とき、温は言う。「言語化する必要はないのよ」。そう、この小説には対象に言葉を与え、形式化してしまうことの不安とおびえがあふれている。すでに初老を超えた作家のなかにひそむひとりの少年がここに現れる。どのようにこの感覚、感情を言い表したらいいのか。どの言葉も対象の深さと奥行きに足りない。だからこそ、謎めいていた他者の言語を探る旅が始まった。「台湾語」や大陸からの「國語」、そして「日本語」が手繰り寄せられていったのである。
 簡単に言葉にしなくていい。だからこそ言葉の旅が生み出されたのだ。その赦しと旅の始まりが、この小説では原型的に反復されている。リービ英雄自身の台湾への旅で起きた出来事は、大川景子監督によるドキュメンタリー『異郷の中の故郷』(二〇一三年)で「目撃」することができる。同時にまた言葉でその旅を「経験」することによって、この小さな旅が、しかし、オデュッセウスの長い旅でもあるかのように感じることになる。