【書評】この世界を生きてゆくこと
岩川ありさ
本書に収められた「地の果て、砂の祈り」と「東京奇俠伝」は、いずれも旅をめぐる小説である。登場人物は旅をしながら、自らの過去や記憶を呼び起こしてゆく。個人の記憶だけではなく、社会や歴史に関わる記憶も重なってあらわれる。記憶は互いに影響しあい、切り離すことができないものとして描かれている。
表題作「地の果て、砂の祈り」の冒頭では、ナイル川に射し込む金色の光が印象に残る。夕暮れを迎えたナイル川には細かな波が広がり、光がきらめく様子は幻想的だ。しかし、語り手の「私」も、一緒にエジプトを旅するりさも、その風景を眺める気持ちにはなれない。二人は一か月前に別れたばかりで、気まずい関係のまま、旅行しているからである。二人のあいだには、かつて親密だった記憶が残っている。けれども、もう二人の世界は交わらない。
この小説を読みながら、人と人が出会い、別れるということの戻れなさととりかえしのつかなさが胸に迫ってきた。語り手の「私」は日系企業の台湾支社で働き、抜擢されて東京本社へ移る。LGBTネットワーキング交流会でりさと出会い、二人は親しくなる。「思云ちゃん」という名前で呼ぶりさを「私」は憶えている。同じ場所にいながらも、その世界が交わらないという主題がこの小説では繰り返しあらわれる。
語り手の「私」は、長いあいだ、この世界との「ずれ」を感じながら生きてきた。子どもの頃から成長してゆくなかで、言葉が性的な意味を帯びるようになり、周囲では人間関係も性的なことと切り離せないものとなってゆく。語り手の「私」の言葉でいうと、「恋愛=交際=性交」という等式が、この社会には規範として働いているということになる。セクシュアリティをめぐる社会的な規範が、語り手の「私」の生き方や他者との関係を制限したり、規定する過程がこの小説では詳らかに描かれている。セクシュアリティは、社会的なものであり、歴史のなかで変化してゆく。同じくらい、セクシュアリティはひとりひとり異なり、その人に固有のものである。個人的な体験と社会のなかでかたちづくられているセクシュアリティのあり方の葛藤をこの小説は描き出している。
この小説は、最後にさしかかるにつれて、砂の色や月明かりの微細な変化をとらえてゆく。そこに砂漠はあり、月は空で輝き、人々の上に明日はやってくる。サハラ砂漠への旅は、地球や天体という悠久をも見せてくれる。幾色にも浮かびあがる砂の祈りが、今という時間を凝視させる。
「東京奇俠伝」も、旅が重要な意味をもつ小説だ。幼馴染の清猗と芷離は、台湾の大学でミャンマー出身の采荔と出会う。大学時代の芷離は、生まれたときにわりふられたジェンダーとは異なる性別への移行をしている途中である。この小説では、この世界に居場所がないと感じる芷離が経験する苦難が、清猗の「私」という一人称の語りによって描かれてゆき、芷離という人の苦難に満ちた旅が紡がれる。
芷離の生き難さについて語られるなかで、人を傷つけることだけを意図した壁が芷離の前に立ちはだかり、生きることをくじくイメージの「防犯のためにガラスの破片を嵌めた壁」という言葉が鮮烈だった。現在の社会においても、ジェンダー・マイノリティが置かれているのはこのような状況でありつづける。また、芷離が「私のような人間はね、転んだり踏み外したりすることが許されないの。故障許容度が低いんだよね。分かるかな?」と語る言葉からも痛みを感じた。多くの人には許容されている「ミス」がマイノリティには許されない。あるいは、マイノリティを代表したもののようにとらえられてしまう。「綱渡り」のような日々を芷離は生きている。他者からの視線にさらされながら、この世界が望むあり方にあわせて生きざるをえない。その切実な痛みが、芷離の言葉からは浮かびあがってくる。
ルームシェアをすることになった清猗と芷離と采荔の三人が、築五〇年になろうとするアパートを自分たちの「家」にしようとする姿も印象に残る。自分が生まれ育った家に居場所がない者は、新しい居場所をつくるほかない。「東京奇俠伝」という小説でも、生き延びることができる場所の存在が示唆されている。けれども、三人がミャンマーに旅をし、そこで、芷離との関係に決定的に亀裂を生じさせる言葉を清猗が口にしてしまう。その瞬間に世界が凍りついてしまうような感覚が伝わってくる。これほど近くにいた人からも傷つけられるのか。そんな痛みを感じさせる場面である。
二〇二一年三月、日本に暮らす清猗と芷離の再会は、ミャンマーでクーデターが起き、ヤンゴンに住む采荔のことを心配するところからはじまる。采荔は中国語と英語でミャンマーの情勢についてフェイスブックで発信を続けていた。地球の上で起きている出来事は決して遠い場所で起きているのではない。同じこの世界で起きており、この世界がどういう世界なのかに誰もが関わっているのだ。しかし、「人間はみんな平等だというけれど、悲嘆の配分はどこまでも不均等なの」という芷離の言葉にもあるように、誰の生が社会によって守られ、誰の生がより大きな悲嘆や喪失にさらされるのかという問いが浮かびあがる。この世界の不均等をどのようにすれば解消できるのかという問いがこの小説からは見出せるのだ。だからこそ、清猗と芷離が子どもの頃に夢中になったパソコン用RPG『仙剣奇俠伝』と現実世界との関係が興味深い。このパラレルの、あるいは二重写しの場面には、「シスヘテロ規範全開のゲーム」を逆手にとって、世界を転覆させようとするような感触があった。立ちはだかる壁を逆手にとるような、あらゆる表現が自分をふるいたたせ、理不尽をふりはらうような。けれども、生を賭すよりほかない理不尽がなく生きられる世界のことを想像した。今の時代が本当に変わる日のことを強く思ったのだ。