【書評】わたしたちは図太く現代を生きるべきか
矢野利裕
語り手の「俺」は、大学受験をして福岡から上京し、いったんは東京で就職をしたもののメンタルを病んで退職、現在は大学時代の友人である忍からの月10万でストリートファイター6の対戦相手になってほしいという奇妙な求めに応じて、格闘ゲームに興じる日々を過ごしている。そんな「俺」はある日、近くの自販機のオーナーから、怪文が印字されたテープが自販機に貼られていたら剝がしておいてくれ、という依頼を受ける――。
すばる文学新人賞を受賞した本作の一見した特徴は、商品名やネット用語といった卑近な言葉の多用・氾濫にある。これを文学らしからぬものとして断じる向きもあるかもしれないが、そんなことはない。文学史における新潮流はおうおうにして、それまで使用されていなかった言葉とともに登場する。したがってこのデビュー作は、文学シーンの現状に対して挑発的でありながらも、いやむしろ挑発的だからこそ、文学シーンの正統の位置にあらんとしている。逆説的な物言いになってしまうが、初読時にはそのような印象を受けた(このような印象を著者が喜ぶかどうかはわからないが)。その意味では、数年に一度登場するたぐいの良い感じのデビュー作だと思った。まずはそのようなセンスを持った小説家の登場を喜びたい。
実際、本作の語り手「俺」は、いかにも文学に描かれてきたような青年期の悩みを抱えている。上京して就職してはみたものの周囲と上手く馴染むことができず無職となった「俺」は、なかば社会からはじき出されるかたちで名状しがたい不安を抱えながら生きている。「俺」の右耳たぶにできた「粉瘤」の存在に、芥川龍之介「羅生門」の冒頭、主人から暇を出された下人が頰の面皰を気にしながら「行き所がなくて、途方にくれていた」ことを思い出す。いずれも青年の不安定な内面や微細なストレスの表徴として捉えられる。このように本作の底辺には、一般社会から疎外された「俺」の不安感が漂い続ける。では、そんな「俺」が生きる社会とはどのような場所か。
本作を特徴づける商品名・ネット用語の氾濫が単に目新しさを演出するために用意されたものではない、ということには注意しておきたい。というのも本作の中盤、「俺」は忍の提案で自販機に貼られた怪文のテープをメルカリに出品するのだが、「俺」はこの出品行為について「まだ名付けられていない新しい悪さをしているよう」だ、と語る。自販機に貼られていただけのテープを呪物かのように言い張ってカネを得ようとすること。「俺」はこの詐欺まがいの発想に対して「新しい悪さ」を見出している。しかし考えてみれば、同じような「悪さ」はこの資本主義社会に溢れている。商品は実体と乖離したコピーやデザインによって、あるいは、ネットの情報は実体と乖離した煽り文句によって、人びとのアテンションを引き付けるべく装飾される。作中のYouTube番組『ずべらんばあチャンネル』にしてもTikTokでの「偽善者ダンス」にしても、ほんの少しのパッケージングの操作によって話題になり消費されていく。有用性とは関係のないところで価値が見出されてしまうこうした商品の呪術的な性格こそ、マルクスが物神性(フェティシズム)という言葉で指摘したものだ。自販機に貼られたテープは、まさに「オマトゥマヘーオマヘマンヘー」という「呪い」の言葉が印字されているからこそ、商品価値が生じてカネと交換されうる。「何を訴えているのかが分からないゆえに勝手に価値を見出されている」。したがって、本作における商品名やネット用語の氾濫とは、あらゆる事物に対して実体以上の価値を付与する資本主義的で詐欺的な「呪い」の言葉の氾濫なのだ、と読める。
「俺」を取り巻く社会とは、そのような実体なき言葉が氾濫する社会である。「俺」は、そんななかで身に付けた「格ゲー用語」としての「択」という言葉を日常生活でも使用していたことをきっかけとして会社を辞めることになった。会社の「世話役の先輩」に「お前の日本語なんか色々変だから矯正しろ」と叱られて、それがストレスとなっていたらしい。しかしそんなことを言ったら、この社会を飛び交うあらゆる言葉が「色々変」ではないか。「エクセル」が使えないくらいなんだというのだ。「択って言葉を知っている方が豊か」ではないか。言葉と実体が乖離しながら回っているこの社会に上手く乗れない「俺」の不安定さは、そのあたりに起因している。そしてその不安定さは忍にも共有されている。たとえ巨額の財産を持っていようと、いやビットコインという実体なきカネを得てしまったからこそ、忍は不安を抱いている。「ちゃんと働いて、その給料に合う生活を楽しんで、余暇の内で趣味に打ち込んだり幸せな家庭を築くとか、そういうの……そういう豊かさを俺は知りたかったんだよ!」と。
終盤、まるで実体のともなわないまま「任俠映画のヤクザの凶相と、その口調」を演じる「俺」は活き活きしている。少年ふたりに対峙した「俺」は、ほんの一瞬堂々とした姿を見せる。この資本主義社会をたくましく生きるためには、実体以上の何者かを図太く演じきることが大事だということか。著者の「受賞のことば」には、「受賞に伴い、降ってきた作家という肩書は、様々な間違いの挙げ句に私に届いてしまったようで、いまだに釈然としません」とある。ひとりよがりの自分の言葉に対して「文学的な価値があるのだ!」と図太い神経で言い張るのが「作家」というヤクザな商売だ。だとすれば、このデビュー作を書いた「作家」の行方をもう少し見てみたい。釈然としないという気持ちを抱えながらも「作家」として図太く生きるのか。それとも「都落ち」するのか。
もっとも評者の私は、「都落ち」することが悪いことだとも思わない程度には、実体なき言葉が氾濫するこの社会に戸惑う「俺」に共感している。同じように詐欺まがいの言葉を弄する者として、その戸惑いと悩みを抱えた次作を期待しています。