【書評】生きることは汚れることだ
吉村萬壱
石井遊佳のデビュー作『百年泥』は、インドのチェンナイのアダイヤール川が百年ぶりに氾濫し、橋の上にすくい上げられた百年分の泥の中から、自他の記憶がまざり合った虚実曖昧な物語が次々に湧いて出てくるという混沌とした小説であった。
続いて刊行された『象牛』も妄想なのか現実なのか分からない二編から成り、ガンジス河を舞台にした表題作は、主人公が忘れようとする恋人・片桐准教授の「セックスはただの鍋。俺たちはそん中の具。みんなぐるぐる煮蕩けてどろどろのスパイス汁だ」という台詞が示すように、淀川の河川敷が舞台の併録作品「星曝し」のラストの怖さが寧ろ救いに感じられるほどの、強烈なごった煮小説であった。
三冊目の『ティータイム』も、その爽やかなタイトルとは裏腹に、秩序のタガが外れた四編のぶっ飛んだ奇想小説から成っている。
「奇遇」の主人公・明良は、「自由になりたい」と願ってインド行きを決意する。しかし次々と金銭トラブルに巻き込まれ、帰国後、闇金からの借金を返すために監獄のような外航路の客船スタッフとして働く破目になる。彼が日本の港で知り合ったインド人・クリシュナは、ヒジュラ(両性具有者)のラクシュミーのことが忘れられない。そのラクシュミーが語ったインドの川には、人間に関するあらゆる物が流れてくる。
「壊れたベッド、赤ん坊の産着、プラスチックの袋に入った胎盤、花嫁衣装のサリー。死んだカラス、死んだ犬、死んだ人間。死骸の全部、死骸の一部。くさって耳鼻のとれた男の頭部、頭皮がついたままの女の髪。入墨の入った男の腕、女の太もも、睾丸の片っぽ」
身も蓋もないこれらのパーツを組み合わせてできたのが、ラクシュミーなのだという。これらの流れてくるもの全てが人間に関する物ならば、ラクシュミーに限らず人間そのものが汚穢の塊とも言える。
「ティータイム」の主人公で温泉旅館のルーム係の明里は、「生きることは汚れることだ」と観念し、彼女の交換されていない生理用ナプキンが人間の汚さを象徴する。「網ダナの上に」の主人公・早紀は、鉄道自殺を図った母親を助けようとして巻き込まれて列車に轢かれ、母の肉とまざり合って一つの肉団子になってしまう。「Delivery on holy night」の主人公・智史は、「殺されても死なない命」をサンタクロースから貰ったものの、何度もめった刺しにされては血だるまになることを繰り返す。
かくの如く、石井遊佳は徹底して汚穢を描く作家なのである。
物質的な汚穢だけでなく、隠された行為としての精神的・心理的汚なさも石井作品には事欠かない。「奇遇」の明良の身に襲いかかる数々の裏切り行為、「網ダナの上に」に登場する少年に「ごめんなさい。ぼく、なんで生まれたの?」と言わしめる両親の異常なしごき、「ティータイム」の美少年に「ぼくたち、いらない子供なんです」と言わしめる母親のネグレクト、明里が味わった母の愛の欠如と夫の非道。石井作品の登場人物たちはおしなべて意地悪な上司や同僚、愛のない家族によって自分が誰からも必要とされていないと感じ、気が付くと意識は混濁して「運命のサンドバッグ」状態となり、例外なく汚穢の沼へと滑り落ちて行く運命を辿る。確かに自分の思いとは全く違う方向へと否応なしに進んでしまうのが、人生というものであろう。
しかし汚穢に堕ちるのは必ずしも絶望的なことではなく、寧ろ自然な成り行きだとも言える。自然界は元々汚い物に満ち満ちていて、汚穢そのものである。その汚穢を排除し続けることで維持されているこの社会こそが、却ってその歪んだ清潔さによって人々を窒息させているのだ。社会人類学者メアリ・ダグラスは『汚穢と禁忌』の中で「汚れとは体系的秩序から排除されたあらゆる要素を包含する一種の全体的要約ともいうべきものである」と述べている(塚本利明訳)。汚穢こそ、全体なのである。
石井遊佳は敢えて汚穢を描くことによってこの世の森羅万象を小説世界へと呼び込み、登場人物たちを問答無用に汚穢まみれにしていく書き手である。人間のことなど知ったことではない無数の偶然事に満ちたこの世界で、見せかけの救いは却って残酷なのだ。「Delivery on holy night」では子供の夢を叶えるサンタクロースは詐欺師であり、クリスマスツリーの美しいオーナメントは寧ろ何か汚いものとして描かれる。「死なない命」を与えられた智史の人生は、その「希望」故に悲惨と虚無の度合いを深め、「希望につける薬はない」と思うに至る。しかし三度目にめった刺しにされた時、彼は「運命がぼくを遊ぶんだったら、ぼくも運命を遊んでやるまでだ」と思い直す。「ティータイム」の明里は夫からの半年間の逃避の果てに、「何も明らかである必要はない」という一種の諦念の境地に達する。
安易な答えに縋ってちっぽけな自分の存在意義にしがみ付くより、寧ろその手を放して運命に身を任せることで汚穢の一部となること。破滅的な人生の底でこの不思議な運命愛に到達した彼らは、自分の存在意義を誰かに認めてもらわなければ生きられないという卑小な生き方から、生も死もひっくるめた汚穢宇宙へと捨て身のダイビングを決行する。そこに本物の救いがあるかは不明だが、少なくとも読者にとっては大阪人らしい文体の齎す哄笑が救いだ。
私は石井作品に、自分の小説と同じ匂いを感じる。彼女に向けて私は、小林古径が片岡球子に言った次の言葉を贈りたい。
「今のあなたの絵は、ゲテモノに違いありません。しかし、ゲテモノと本物は、紙一重の差です。あなたは、そのゲテモノを捨ててはいけない。自分で自分の絵にゲロがでるほど描きつづけなさい」(奥岡茂雄『片岡球子――個性(こころ)の旅路』北海道新聞社)