コークスが燃えている

コークスが燃えている

著者:櫻木みわ

筑豊の炭鉱町出身の私(ひの子)は東京に住み、もうすぐ40歳になる。非正規で新聞社の校閲の仕事をしているが、3年限定の仕事なので、いずれ新たな職を探さねばならない。両親は他界していて、年下の恋人だった春生とは1年以上前に別れていた。
新型コロナウイルスが広がるなか、前に弟との結婚騒動で出会った女性・沙穂から連絡があり、東京で食事をすることになる。彼女は看護師で、独りで子育てをしていた。ひの子は沙穂の影響で、逡巡しながらも春生にメールを送ってしまう。すると思いがけず返信があり、再び付き合うことになって……。

出会いと別れ、他者とのつながり。
現代女性が対峙する実相を、かつて炭鉱で労働を担った女性たちに心を寄せつつ描く、鮮烈な中編小説。

ISBN:978-4-08-771795-2

定価:1,650円(10%消費税)

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櫻木みわ『コークスが燃えている』刊行記念インタビュー

【書評】抗うための渾身

町屋良平

「率直であること、自分にたいして正直であること。それらを美質だと感じ、礼儀や規範から多少外れていてもその正直さのほうを好ましく思う傾向が、私にはあった。そこに聡明さと思慮深さが加わったら、私はその人間を信頼できると感じる。」
 これは本作の語り手であるひの子が小説内の登場人物について評した文章である。勝手ながら私にはこの文における「自分」「人間」の文言を「小説」と置き換え、「その『小説』を信頼できる」とするような小説観がある。では小説における信頼とはいったいなにか。読み手は基本、語り手の書く言葉がどの程度信に足るものかということを厳密に判断することは難しい。もちろん、ある程度は分かる。語り手がみずからの五感や経験にできる限り誠実であろうとしている小説と、書こうとしているフィクションに都合のよい経験や五感を恣意的に取捨選択している小説は分けて考える。だがその峻別は難しく、あくまでグラデーションめいた感覚に頼るしかない。『コークスが燃えている』はしかしそうした迷いなく前者に切迫しつづける小説と言い切れる。
 語り手の「私」ことひの子はじきに終了する三年限定の非正規契約の校閲係として働きつつ小説を書いている。二〇二〇年のコロナ禍にある東京で孤独に苛まれる「私」は、またコロナ禍によって以前交際していた男性である春生と連絡を取り合うようになり、やがては親密な関係に戻り懐妊する。一度は結婚出産に同意した春生は、しかしそれを翻意し、「私」はひとりで子を産み育てる決意をする。だが社会や医療制度は子を歓迎する体裁をとりつつ非正規雇用者として未婚出産へとすすもうとする「私」をあらゆる局面で突き放す。再度の話し合いを経て「私」は春生とともに子を迎えることになり、準備を進めるが日を追うごとに立ちはだかる社会的障害に直面し、とくに小説の後半、心身ともに追い込まれる語り手は他者の冷酷さと温かさの双方をまともに受けざるをえない状況に陥る。この小説の運動がいきつく先として見えてくるものとは、心身のある状態において否応なく浮き彫りになる、この社会で連帯するということの真相めいた新たな場である。
 著者はSF的想像力の強くめぐらされた作品集『うつくしい繭』で世に出た書き手であり、現在世界にはまだ「ない」ことを「ある」こととして描出する力に優れている。だがそうした作品で描かれる「ない」ものは、じつはいま「ある」ものからひとつずつ想像力をズラしていくことで表象される。「ない」ものへの想像力は、すでに「ある」ものからしか生まれえない。本作で描かれるのは、いうなれば「ない」状況と「ない」状況の紐帯、そこにやどる社会の欺瞞やシステムにおける想像力の空隙のようなものである。たとえばこれから生まれてくる、まだ生まれてい「ない」子どもは可能性のすべてを持っている。しかし私たちが不自由なく子を育てていけるような環境はとうてい備えられてい「ない」。子育てにおける男女格差とその歪んだ現状認識もまったく是正され「ない」。子を含む、ケアを必要とする人々を差別なく受け容れる社会もとうてい訪れてい「ない」。語り手のひの子が直面する現実における「ない」は複数複雑に絡みあう、それ単体では見えてこない現実かもしれない。この世界にいまだ「ない」ものが複数掛け合わされれば、ともすれば想像力を向けることすら難しくなってしまう現実がある。この社会に「ない」ものは、それ単体が「ない」のではなく、多くの関係性においてそのなさが可視化される。たとえば差別される側に回ってはじめて見えるのはおそらく、差別というそれが「ある」ということ以上に、差別されるその瞬間以外見え「ない」ように、わから「ない」ようになっているという構造ではなかろうか。そしてやがて忘れ去られ、ますます「ない」ことにされる、それを拒むためにどれほどの胆力が必要か、「ある」側からただ想像するだけでは決して及ばない。だから文学は「ない」ものを「ない」というだけのメッセージでは届きえない、「ない」の多重性によって想像力すら届かない場へ向かおうとする言語表現である。
 本作は「ない」の多重性に搦めとられたものを現前させるためにフィクション的欺瞞を排した描写が徹底され、細部に亘って著者の誠実が試されつづけた認識のみで書かれているものとたしかに伝わる。くわえて複数の登場人物がいくばくかの時間を経てたしかに生きているという実感が、シーンの巧みな構成によって生々しく読者としての身に響く。こうした小説の持つちからが、この現実についての新たな思考を要請する。私たちが認識する現実はつねに欠けたそれでしかない。たとえばいま一度本書評の冒頭に引いた一節に立ち返り、評者が恣意的に「小説」と置き換えた「自分」「人間」の文言を「現実」とする。この文脈において「小説」を経由し「現実」へたどり着く、本作はたとえばそのような作品だ。小説はしばしば、読者がこうであってほしいという解釈を欲望してしまえる広さを持つ。しかしそれは時に「こうであってほしい現実」と密接な関係を結ぶ。だが評者の社会的立場を踏まえた男性性側の現況として、あまりにもわれわれは独り善がりの夫権的なヒロイズムと、それがかなわないがゆえの被害者意識を押しつけ、いまなお他者への抑圧を止めようとしない。自分たちが見たい現実をいつまでも欲望し、それを他者へ強要することに慣れすぎている。本作を通してわれわれがなにを欲望し、なにを拒んできたか、まずそのことに向き合うべきではなかろうか。それだけの信頼に値する正直さ、聡明さ、思慮深さがこの小説にはあるのだから。