【書評】西洋とは異質な性の日本史
佐伯順子
日本初の春画展をめぐって生じた、芸術か猥褻かという議論。時宜を得るかのように、本書は明治の「猥褻の罪」から説き起こし、『古事記』『源氏物語』から平安時代の和歌、近世の俳諧、浄瑠璃に至るまで、日本の文化、文学にみる性の歴史を俯瞰的につづった。
イザナミとイザナギの国産み神話に描かれる「まぐわう」は「目交う」であり、それは、平安時代の「逢う」「見る」の性関係につながる流れに結びつくが、性風俗としての盆踊り(下川耿史『盆踊り 乱交の民俗学』)がアイコンタクトによって交渉を成立させたのも、本書にてらせばすんなりと納得される。
男色も江戸時代までは通常の恋の範疇にあり、院政期の貴族間の男色については五味文彦の研究があるが、顔のみえない相手に和歌を送るという面倒な手続きが必要だった女性との交際よりも、顔丸出しでコミュニケーションできた男どうしのほうが恋のハードルが低かったという本書の指摘は、男色隆盛の理由についてユニークな視点をもたらしている。
「恋愛から結婚へのプロセスは、遠い平安時代に」完成しており、江戸時代の遊廓における恋の作法はその踏襲であるという議論も、日本の「結婚」の歴史を巨視的にとらえて興味深い。金銭を媒介にした関係とはいえ、太夫クラスの高級遊女であれば客を拒否することもできたのであり、それを、深草の少将の百夜通いの伝承に象徴される、通い婚時代の女性の側の拒否権の継承とみるならば、好意を抱いた相手との〝変則的結婚〟としての遊女との恋が、江戸の男たちの憧れの的となったのも、むべなるかな。
日本語には「FUCK」に相当する動詞、つまり「性交自体を表す動詞」がなく、それは、生殖器のふれあいをそれ以外のスキンシップから特化する発想がなかったがゆえ、という論理に従えば、和歌の「触る」という表現も、「ストレートであるがゆえにいやらしくない」味わい深いものとなる。直截な性表現?猥褻という近代的な固定観念が小気味よくゆらぎ、芸術と性とが西洋とは異質な形で結びつく日本文化のありようが浮かび上がる。近松の浄瑠璃に潜むエロス的要素への注目も、古典芸能の楽しみ方を豊かにする。
辺境の書『葉隠』が理想化した「武士道原理主義」的な男色の「忍恋」が、明治の近代化以降、男女の恋に適用され、禁欲主義的で「恋に不器用な」日本男児を生んだという見解も、現代日本の草食男子や非婚化現象を説明づけるようだ。