ハイドロサルファイト・コンク

ハイドロサルファイト・コンク

著者:花村萬月

「遠くない未来に、私は死ぬ」これは、現世の報い?〈骨髄異形成症候群〉発症から骨髄移植、GVHD、間質性肺炎、脊椎四ヵ所骨折など副作用のオンパレードへと到る治療の経過を観察しつづけた作者自身による実録小説!

ISBN:978-4-08-771783-9

定価:2,420円(10%消費税)

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内容紹介
血液型が変わる。頭髪がなくなる。
性欲もなくなる。それでも、生きる。

これは、現世の報い? 遠くない未来に、私は死ぬ。〈骨髄異形成症候群〉発症から骨髄移植、GVHD、間質性肺炎、脊椎四ヵ所骨折へと到る治療の経過を観察しつづけた作者自身による満身創痍のドキュメンタリー・ノベル!

「血液検査の結果、完全に血液がO型からAB型に変わった。爪のかたちや体毛、髭など、ずいぶん外見上の変化がある。食べ物の好みもまったく変わってしまった。加えて精神が大きく変貌したのかもしれない。自分の血液をすべて殺して、他人の血液を迎えいれる。凄いことだ」(本文より)

【書評】小説怪獣なのである、花村萬月は

豊﨑由美

 骨髄穿刺と遺伝子検査の結果、「前白血病状態」との診断を受けた二○一八年三月末から、約三年間に及ぶ闘病の日々を描いたノンフィクションノベルが、花村萬月の『ハイドロサルファイト・コンク』だ。
 病の最初の兆候は二○一六年。八ヶ岳の別荘地内を散歩している最中、〈私〉はいきなり動けなくなってしまう。以降、歩くのが遅くなり息があがるようになっても、自身の健康に闇雲な自信を抱く〈私〉は、単なる加齢によるものと不安を退けてしまう。翌年の七月には編集者らと遊びに行った沖縄で足を酷く痛めたにもかかわらず、医師の言いつけを守らず、あげく、両足の甲がスニーカーが履けないほど烈しく浮腫んでも、診察までの待ち時間が億劫で病院に行こうとしない。妻に半ば拉致されるようなかっこうでK内科医院で検査を受けたのが十月十一日の夜。赤血球が最低基準値の半分近く、血小板が最大基準値の倍ほどもあり、医師から「骨髄穿刺が必要ですね」と告げられてもなお、読んでいるこちらが不安に駆られるほど〈私〉から楽観性が失われることはない。明けて二○一八年一月十八日、十月以来来院しなくなったことを案じたK先生から電話がかかってきて、ようやく重い腰を上げた〈私〉を待っていたのが、血小板が奇形化していて「最悪、白血病」が疑われるとの診断。ついに骨髄穿刺を受け、紹介状を書いてもらったK大医学部附属病院での闘病が始まる。
 始まるのだけれど、〈私〉の記述に悲愴感はまったく見当たらない。やきもきしているのは読んでいるわたしだけで、〈十代から『死んでもいい』と思いつつ、たぶん死なないというなんら裏付けのない正常性バイアスに支配され続けて、還暦を過ぎてしまった〉自分の内面は〈十七歳あたりからまったく成長していない。明日のことをまったく考えない〉と分析する作者は、これからの治療に際して望まぬ投薬が続くであろうからこそ〈薬物に関しての記述は、ある種の報告書を目指す〉とし、非合法薬物も含めた〈個人薬物史〉なるものを微に入り細をうがつ筆致で描いていくのだ。白血病の疑いありと診断された普通なら不安でたまらないであろう時期に、知人から送ってもらったベニテングタケの幻覚性を試したりしているのだ。
 愛読者なら先刻承知のとおり、花村萬月という小説家には、たとえ作品の本筋を壊しかねなくとも、自分が説明したいと思った事柄に関してはとことん語り尽くさずにはおられない偏執狂的な面がある。生きるか死ぬかの瀬戸際に立たされてもこの性癖は変わらず、とてつもない苦痛を伴う治療の過程は言うに及ばず、触れておきたいことを思いつけば、その都度マニアックなまでに緻密なタッチで解説と描写を重ねていくのである。この異様な胆力と集中力はどこから生まれてくるのか! 「いや、だって、これは骨髄移植の手術や治療が終わった後に書いてるんだから、そりゃ詳細な記述もできるでしょうよ」と思った、そこの貴方、文芸誌「すばる」で連載していた二○二○年七月号から二○二一年一○月号のさなかも、作者は〈たった一つだけかたちの違った白血球をもったドナーから骨髄移植を受けた後、移植から二年を経たいま現在、この原稿を執筆時点も慢性の移植片対宿主病(以後GVHDと略す)にとことん痛めつけられて〉いたんですよ。
 ドナーの骨髄液を入れる前に、自身の病んでいる血液を殺すために投与・照射された抗癌剤と放射線による凄まじい副作用。ドナーのキラーT細胞によるさまざまなGVHD、ステロイド投薬によるムーンフェイス、七十三日間の入院生活、退院後に起こした間質性肺炎で再度の入院。〈蟻の門渡りに、鋭い刃物をあてがわれている。私は強靭なゴムで中途半端に軀を吊りさげられている。軀はゴムのせいで不安定に浮きあがっていて、切先が幽かに会陰に触れている。やがて自重で刃物の上に落ちていき、切先が睾丸と肛門のあいだにすっと入りこむ。ゴムで吊るされているので拗れもあって、刺さった刃が回転する。(略)、もう死ぬ! と声をあげたくなる〉と表現される膀胱炎、前立腺炎、尿道炎の三つが合わさった痛みの無限ループ。真剣な希死念慮に襲われるほどの激痛を伴う脊椎の四箇所もの骨折。失禁による紙おむつの使用。
 読んでいて苦しくなるほど圧倒的なリアリズムで描かれる闘病と痛みの記録。しかし、〈私〉はそんな中にあっても小説を書き続けているのだ。五つの連載をこなし、あろうことか新しい小説まで書きだしてしまう。モルヒネによる半覚醒状態のまま、自然科学、宇宙科学、歴史、宗教の教養を総動員して描いた物理の聖典『帝国』のようなマルチバースSFまで書き上げてしまうのだ。まったくもって全身小説家、小説怪獣なのである、花村萬月は。
 数年にわたって当事者への取材を重ねてきた解離性同一性障害(多重人格)がテーマの、退院後に完成させた長篇『対になる人』と呼応する不思議な現象を描くことで、読者を現実と虚構のはざまに宙づりにする。治療を受けていた近過去を報告する主筋の中に、本作を執筆している現在の状況、妻ならびに溺愛している二人の幼い娘とのエピソード、膵臓癌で亡くなった母親の思い出や十歳の時に目撃した父親の腐臭をまとった死に様といった過去を、融通無碍の語り口で挿入することで時空の揺らぎと奥行きを生む。斬新な私小説のかたちを、この作品は示してくれているのだ。
 おまけに、闘病によって失われた性慾を取り戻した〈私〉が妻の秘所の脱毛を発見して以降の意想外な展開がもたらす驚きときたら! タイトルの「ハイドロサルファイト・コンク」とは強力な漂白剤のことで、作者は〈漂白された私に、もはや感情と呼べる色味はない。感情がなければ、悩みもない。ようやく白くなれた。真っ白になれた。さようなら。〉という文章でこの作品を締めくくっているけれど、真っ白になったのはわたしの頭の中ですよと言いたいのだし、月には満ち欠けがあって、新月にも半月にも上弦下弦の月にも風情はあるのだから、これからはフル回転の執筆は控えて長く、長く長く書き続けてくださいとも言いたくなった次第なのである。